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2008/01/28

■節子への挽歌148:「賢明な人は生について考え、死については考えない」

「賢明な人は生について考え、死については考えない」
スピノザの言葉だそうです。
私が「賢明な人」だったことが証明されました。
しかし、最近、「死」のことを少し考え出しましたので、その「賢明さ」も危ないものになってきました。

私にとっては、「生」と「死」は全く別のものです。
死者は死を体験できず、死者は生を体験できません。
武士道では、死を意識して生きることが目指されますが、私には理解しがたいことです。
節子ががんになった時に、知り合いの医師から、「死に方の問題です」とアドバイスされた時には言葉が出ませんでした。
しかも彼は、統合医療の分野で活躍されている医師でした。
それ以来、統合医療にも関心を失いました。
その人は、その後、メールで何かできることはないかと言ってきてくださいました。
それに応えて相談のメールを出しましたが、なぜか音沙汰ありませんでした。
やはり彼は「生」には関心がなかったのかもしれません。
所詮、彼にとっての統合医療は「死の医学」だったのかもしれません。

「正法眼蔵」の公案に、「たき木はいとなる さらにかえりてたき木となるべきにあらず」というのがあります。
木は燃えて灰になる、しかし灰はもはや木にならず、そこにはつながりはない。
木と灰のつながりについては「前後際断せり」と切り捨てています。

生死もそうです。生きるものはいつか死にますが、死者は生き返りません。
しかも身体と違って、生命はある時点から完全にこの世からは見えなくなります。
いや生きている時にも、見えていたわけではありませんので、何も変わっていないのかもしれませんが、身体には戻ってきません。
死と生は、まさに際断された別物だと思います。

死を意識して生きるとは、いつ死んでも悔いのないように、その時々の生をしっかりと生きることでしょう。
しかし、死を前提にしなければしっかりできないような生き方は私の性には合いません。
節子は、がん宣告を受けてからは、1日1日を充実させることに心がけました。
節子のおかげで、私も日々の生き方の大切さを教えられました。
しかし、節子は決して「死」を意識していたわけではありません。
ともかく「生」を輝かせたかったのです。
私が接する限り、節子は最後まで「生きる」ことを目指して、毎日を充実させていました。
凄絶な最後の1か月さえも、ひたすら生を目指しました。
その姿を私は忘れることはないでしょう。
見事でした。

その頃、ある事件がありました。
私の知人が生活苦に陥っていました。
まだ若いのですが、いろいろな不幸が重なったのです。
長らく会っていなかったのですが、何となく会わないと行けないような気がして会いに行きました。
話を聞いてとても複雑な気持ちになりました。
中途半端な応援は躊躇したのですが、帰宅して節子に話したら、なぜ何もしてやらなかったのかと言われました。
節子は彼には会ったことがないはずです。
節子の勧めもあって極めてささやかな応援をしてしまいました。
その数日後、メールが来ました。
そこに自殺がほのめかされていました。
実に生々しい内容のメールでした。

必死に生きようとしている節子と共にある私としては、言い知れぬ憤りを感じました。
生きようとする人の辛さを知っていたら、自殺することなど公言することはできないはずです。
彼もまた死にたくて死のうとしているわけではありませんが、軽々しく「死」を口に出してほしくないと思ったのです。
その時に思い出したのが、冒頭のスピノザの言葉です。
出典もわからず、不正確かもしれません。ネットで調べましたが見当たりません。

また長くなってしまいました。
そのわりにいつも書きたかったところまで辿りつきません。
困ったものです。

ところで問題の彼は、その後、再出発を決意し、
必ずいつか挨拶に来ると言ってくれています。

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