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2008/01/20

■節子への挽歌140:どうして愛夫家という言葉はないのでしょうか

節子
威勢のいいべらんめえ調のNKさんを覚えていますか。
私の周りにいる人の中ではちょっと異色な人だったかもしれません。
そのNKさんも、公私共にいろいろドラマがありました。
年賀状をもらったので、節子のことを知らせました。
そうしたら1日かけて私のブログを読んでくれたようです。
佐藤さんのブログは一つずつが長いし、それに多すぎると言われてしまいました。
もちろんそれはいつものNKさんらしい言い方です。
本来的には、「こんなぐたぐたした文章など読んでられるか」というのがNKさんらしいのですが、
何時間もかけて読んでくれたのです。気が引けます。

NKさんの感想です。
佐藤さんがこんなに愛妻家とは思わなかった、人はこんなにも愛せるものなのだね、というのです。
同じ言葉は他の人からももらったことがありますが、
NKさんからのお褒めの言葉は格別に嬉しいものでした。
NKさんは決してお世辞は言わない人ですし、心の人なのです。
でも、なぜか「愛妻家」という言葉には違和感があるのです。

私は節子を愛していたのであって、妻を愛していたわけではありません。
たまたま妻が節子だったわけですが、妻としての節子ではなく、女性としての節子を愛していました。
ですから「愛妻家」と言われると、ちょっと違うような気がするのです。

なぜこんな理屈っぽいことをいうかというと、「愛妻家」という言葉はあるのに、
どうして「愛夫家」という言葉はないのかが、気になっているからです。
ちなみに、「愛犬家」という言葉はあります。
妻や犬は愛の対象になるが、夫は愛の対象にはならないのです。
不思議だと思いませんか。

そこで思い出したのが、昔、読んだエーリッヒ・フロムの「生きるということ」です。
うろ覚えだったのですが、思っていた通りの文章が見つかりました。

愛が持つ様式において経験される時、それは自分の<愛する>対象を拘束し、閉じ込め、あるいは支配することの意味を含む。
それは圧迫し、弱め、窒息させ、殺すことであって、生命を与えることではない。(72頁)
少しだけ補足すれば、フロムは、大切なのは「持つこと」ではなく「あること」だという主張の中で、こう書いています。
そして、彼は「持つこと」よりも「あること」が大切だといっているのです。
では、あることにおいて愛とは何なのか、
それに関してのフロムの主張は必ずしも明確ではありませんが、上記の反対を考えればいいでしょう。
対象を解放し、強め、生かすことです。
しかし、それもまた余計なお世話であり、私の趣味には合いません。

「愛する」という言葉そして行為は、極めて両義的で悩ましい問題なのです。
これについては、少しずつ書いていければと思っています。

節子にとって私は一体何だったのでしょうか。
愛の対象だったのでしょうか。

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