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2008/01/17

■節子への挽歌137:いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなる

節子 寒い日が続いています。
そちらには寒さ暑さはありますか。
それともそうしたことからは解放されているのですか。

昨日、電車の中で涙が出てしまいました。
「軍縮問題資料」という雑誌(節子も時々読んでいた雑誌です)の『ヒバクシャの「心の傷」は死ぬまで癒えない』という、被爆者の関千枝子さんの文章を読んだからです。
関さんは、あの日、病気で学校を休んだために生き残ったのですが、
ずっと「生き残りは何をなすべきか」を考えつづけてきたそうです。
そして、被爆40年目に、総ての級友の記録をまとめた『広島第二県女二年西組』を出版したのです。
もう20年以上前の話です。
その本のことを中心に「心の傷」の話を書いています。

節子にもぜひ読んでほしい小文ですが、私が涙が出てしまったのは、次の文章でした。

不思議なことに自分のした「いいこと」は忘れてしまうようである。
悔いはいつまでもまといつき、フラッシュバッグしてまた帰ってくる。
それに続けて、親友だった友人に対する悔いが語られていますが、それが極めて生々しく、今の私の心情に深く突き刺さるのです。
関さんはこう書いています。
当事者でない人には、なぜこんなことに私がこだわるのか、分からないかもしれない。しかし、あの無残なありさまで死んだ被爆者に、大事な友でありながら何一つ役に立つことができなかった自分。悔いは深い。そして、この悔いは、月日がたつほど深くなる。薄れることがない。
そこで不覚にも耐えられずに涙をこぼしてしまったのです。

被爆者の心の傷と私の心の傷を一緒にしてしまうのは間違いかもしれません。
しかし、この小論を読んでいて、何やら自分のことのような気がしてしまい、涙が出てしまったのです。
節子は決して無残なありさまで死んでいったわけではありません。
しかし、私には「無残さ」が残ってきています。
自分の家で、家族に看取られて幸せでしたねと言ってくださる人がいますが(昨日も献花に来てくださったTさんがそうお話しされました)、
日がたって私の脳裏で育っているのは、不条理な「無残さ」なのです。
そういってしまうと節子が浮かばれないような気がして、今も躊躇しながら書いているのですが、
関さんが書いているように、いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなるのです。
この辛さは、たぶん当事者でないと分からないでしょう。

私はこれまで、被爆者や薬害肝炎患者や拉致家族のみなさんの「心の傷」を、
全くといっていいほど理解できていなかったことに気づきました。

「心の傷」はやっかいなものです。
昨今の家族内の不幸な事件もまた、そうした心の傷とつながっているのかもしれません。
関さんの文章は涙だけではなく、私にたくさんの気づきも与えてくれました。
そうしたことを話し合えた節子がいないのが無性に寂しいです。
それで今日は、ブログに長々と書いてしまいました。
節子、話を聴いてくれてありがとう。


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