■節子への挽歌133:なぜこんなに退屈なのでしょうか
節子 きれいな花を楽しんでいますか。
今日は愚痴をこぼします。
今日1日、全くやることがなくて、時間を持て余しました。
おそらくこれほどの退屈さは、生まれて初めてです。
節子がいる時には、何もやることがなくても、あなたの隣にいるだけで退屈はしませんでした。
いえ、あなたが傍にいなくても、空を見ているだけでも、蟻を見ているだけでも、池の水面を見ているだけでも、私は退屈などしない人間でした。
もっとも、これまではそんな時間などあるはずもなく、なぜかいろいろやることがありました。
若い頃から、いつも「やるべき課題」を紙にリストしていましたが、それが10以下になることはありませんでした。
そのなかには、ほとんど家事は入っていませんでしたし、ビジネスもあまり含まれていませんでした。
あなたは食事の時間も惜しむほどやることがあるのね、と節子がいつも皮肉っていたのを思い出します。
一体何をやっていたのでしょうか。
そして、節子がいなくなったら、そうしたものがなぜ無くなってしまったのでしょうか。
不思議です。全く理解できません。
それに、あなたがいなくなってから、何をやっても退屈なのです。
本を読んでも、テレビを観ても、音楽を聴いても、ともかく満たされないのです。
30分ほどはいいのですが、持続できないのです。
どうして節子は横にいないのだろうか、こんなことをしていて何の意味があるのだろうか、と思ってしまうわけです。
「節子との交流」が、私の生活の大きな部分だったのでしょうか。
たしかに、よく夫婦喧嘩もしましたし、政治や社会問題に関する論争もしました。
でもそれだってそんなに長い時間だったわけではありません。
私が退屈することなどあるはずがないと思っていました。
やりたいことは山ほどあるし、やらなければいけないことも山ほどある。
でも、いざやろうと思うと、途端にやる気が出ずに、先延ばしし、結局、やることがなくて、退屈になるのです。
今日は、退屈である事の辛さを生まれて初めて体験しました、
そんなわけで、1日、あなたの部屋のこたつでぼーっとしていました。
それに来客も一人もないのです。
寂しい1日でした。
節子がいかに私に幸せを与えてくれていたのか、よくわかります。
みなさん、伴侶はいるだけでいいのです。わがままを言ってはいけません。
喧嘩する相手がいなくなると、それはもう寂しいですよ。
娘と喧嘩しても、その寂しさは決して埋まりません。
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