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2008/01/22

■警察民営化も進むのでしょうか

「暴力団同士の抗争に巻き込まれて市民3人が射殺された事件の実行役の1人に、求刑通り死刑が言い渡されたという記事が新聞に出ていました。
まあそれはそれでいいのですが、いつも気になるのは「暴力団」の存在がなぜ認められているのかということです。

暴力を国家が独占管理すること、これが国民国家の基本の一つです。
これに関してはこれまでも書いてきましたが、もしそうであれば国家以外が行う暴力は本来許されないはずです。
家庭内暴力も問題になっています。
にもかかわらず、たとえ俗称であろうとも「暴力団」の存在が許されるというのは理解しがたい話ですが、どうして問題にならないのでしょうか。
たとえば「殺人団」とか「恐喝団」と言うのであれば、そもそも存在が許されないでしょう。
「暴力」と「殺人」「恐喝」は、言葉の種類が違いますから、暴力団は存在できるのかもしれません。
しかし私には理解できない話です。

警察はなぜ暴力団の存在を許しているのでしょうか。
警察は、国家が承認している「暴力装置」の一つですが、自らの仲間だとでも思っているのでしょうか。
最近流行の「民営化」発想で、いつかは警察民営化の動きの中で、暴力団が警察業務を受託することもあるかもしれませんから、その受け皿として育てているのでしょうか。
まあ戦時においては、過去においてそうしたことは起こっていますから、あながちありえない話ではありません。
それに、日本の国民は民営化が好きですから、戦時でなくともそういうことは起こりえるでしょう。
クーデターを起こした小泉元首相なら、そんなことは朝飯前のことかもしれません。
また口がすべりました。すみません。

しかし、「暴力団」という言葉を使っている人は、どういう思いでその言葉を使っているのでしょうか。
おかしいと思わないのでしょうか。
私にはどうも理解できないことなのです。
まずは、その言葉を使うのをやめるべきだと思います。
もちろん、その実体もなくさなければいけません。

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