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2008/01/16

■水から引き上げた魚から魚の真実は見えてくるか

岩田慶治さんの「カミの人類学」に、こんな文章があります。

皿の上に乗った焼魚も魚の一だが、魚の立場からすれば、生き生きと水の中を泳ぐ魚だけが魚で、あとは魚ではない。
鳥も同じで、空飛ぶ鳥こそが鳥の一である。
つまり、生きた魚を考える時には水と切り離せないわけです。
ある魚が存在できるのは水があるからであって、水がなければ魚は自らの生命を持続できません。
さらにいえば、その水は特定の魚にだけつながっているわけではなく、たくさんの魚とつながっています。
こうやって考えを広げていくと、すべての生命はつながっていることになります。
ですから、人は自らの生命を勝手に断ち切ることはできないのです。
もちろん誰かの生命を断ち切ることも許されません。

ちなみに岩田さんがこの本で言っているのは、こういうことではなくて、
「一」という数字の意味を説いているのですが、この文章はさまざまなことを含意しています。
企業文化論にも通じますし、集合的無意識にも通じていきます。

生きた魚は水の中にしかいません。
水から引き上げた魚をいかに詳細に研究しても、魚の真実は見えてこないでしょう。

異常行動と思われる犯罪事件が報道されるたびに、岩田さんのこの文章を思い出します。
異常な行動を起こした当事者に、私たちは関心を向けがちですが、
むしろそうした行動を起こした社会にこそ関心を向けるべきでしょう。
外部から見ると異常に見えても、当事者にとってはきちんと理由があり、
決して異常なのではないのかもしれません。
そして、その社会は、実は自分自身の寄って立っている社会とつながっているのです。
だとしたら、自分が同じような「異常行動」をとらないとは限りません。
その恐ろしさにこそ、怯えるべきかもしれません。

異常事件ばかりを面白おかしく報道するテレビを見ていて、そんなことがとても気になって仕方がありません。
テレビ関係者は、私たちに異常行動をそそのかしているとしか思えません。
最近、私の気力が弱まっているから、そう感ずるのでしょうか。


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