« ■「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」 | トップページ | ■環境問題は農業問題 »

2008/01/06

■節子への挽歌126:自分流の生き方と常識にあった生き方

一昨日、オスカー・ピーターソンのことを書きましたが、
オスカー・ピーターソン絡みの話題はもう一つあるのです。

実は昨年の秋、節子のことを知った小学校の同窓生が、長い手紙をくれました。
そこに昔、私が送った結婚通知状の文章の断片が書かれていました。
私は過去のことにほとんど興味のない人間です。
節子も似たところがありました。
でも70歳を過ぎたら、縁側で2人で思い出話をしようという暗黙の了解がありました。
ですからそのための材料はお互いに意識的に残していました。
ですが、整理が悪いので、それらがどこにあるか分かりません。
以前書いた私の「詩集」もそうですが、私たちの「結婚通知状」もその一つです。
ちょっと探してみましたが、出てきませんでした。
それで、その時は書くのをやめていました。
そのうち出てくるだろうと思ったからです。

実は、その結婚通知にもオスカー・ピーターソンが出てくるのです。
どう書いたのか思い出せないのですが、書いたことは間違いありません。
でも、今日は、その手紙の内容のことではありません。
それはまた手紙が出てきたら書くことにします。
今日のメッセージは、結婚通知状も含めた、いろいろな通知文の話です。

私は、いつも「定型文」が苦手でした。
結婚通知も、思い切り、私のスタイルでした。
先日書いたように年賀欠礼も定型文ではありませんでしたし、私の退社報告も長々とわたくし的に書きました。
しかし、時には定型的なルールや常識に則ることが必要な時もあります。
実はそういう手紙は、節子の担当でした。
どうしても私が書かなければいけない時には、節子に聞きながら書いて添削してもらいました。
冠婚葬祭などに行く時の挨拶も、節子に教えてもらっていました。
私が我流に挨拶すると、時に危ういからです。

もっとも節子もさほど常識があったわけではありませんが、まぁ私よりは少しだけ上でした。
全くの定型文ではなく、ちょっと心を入れた普通の文章が節子は得意でした。
そうした分野では、節子は私にとっては、まさに先生でした。

私は、基本的なところで判断を間違うことが多く、常識も欠落しています。
一種の発達障害かもしれません。
単なる馬鹿なのかもしれません。
その私が何とかやってこられたのは、節子のおかげです。
その先生がもういないので、これから世間の付き合いができるかどうか、いささか心配です。
失礼なことが起こったら、どうかはっきりと言ってください。
節子がいないこれからは、すべての人が先生です。

|

« ■「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」 | トップページ | ■環境問題は農業問題 »

妻への挽歌01」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌126:自分流の生き方と常識にあった生き方:

« ■「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」 | トップページ | ■環境問題は農業問題 »