■節子への挽歌180:過去こそ永遠に生き続けるもの
先日、「ひとは過去についても祈ることがある」と書きました。
今朝、読み直してみて、私の気持ちがどうもうまく書けていないことに気づきました。
「過去から始まる物語は、過去において完結してしまっている」と言ってしまっては、クラインの壺のように、出口が見つからなくなります。
クラインの壺とは、内部と外部との境界のない空間です。
それはちょっと違うのです。
それで少し補足します。
大切なことは、「過去は過ぎ去ることがない」ということです。
とりわけ現在と断ち切られた過去は、変えようがありませんから、そのままの形で永遠に生き続けるのです。
時間が解決するというのは、多くの場合、問題解決のための方便でしかありません。
自分に関する過去の多くは、決して「風化」などしません。
みなさんもそういうことってありませんか。
過去において完結してしまっているにもかかわらず、むしろ心の中でどんどんと大きくなっていくのです。
そういう意味では、節子は私の中ではいまや「永遠のいのち」を得ています。
それこそ不死の命と言っていいでしょう。
失うことでこそ得られる命というものもあるのです。
私の心身のなかには、節子と一緒に創りだしてきた「過去」がたくさんあります。
ある言葉、ある体験、ある風景、そうしたちょっとした刺激が、そうした「過去」を生き生きと思い出させることがあります。
それは私と節子以外には、絶対にわかりませんし、起こりえない感覚です。
突然に幸せな気分になったり、突然に涙が出たりするわけです。
その感覚は、過去に引きこもると言うようなものではありません。
むしろ過去と言うよりも現在を創りだしてくれるのですから、生きているのです。
「私が過去に生きる」というのではなく、「私のなかで過去が生きている」とでも言っていいでしょう。
繰り返しますが、未来に向かって育っているという意味で「生きている」のです。
そのため、まるで2つの世界を生きているような感覚になることもあります。
みんなと合わせながら、自分にしか実感できない「もうひとつの世界」にいる自分に気づくのは、疲れます。
その「もう一つの世界」では、節子はまだ生きているわけです。
にもかかわらず、その節子に会えないという苛立ちを時々感ずるのです。
節子にはたぶん見えているのに、なぜ私からは見えないのか。
どう考えてもフェアではありません。不条理としかいえません。
またわけのわからないことを書いてしまいました。
でも私にはとても素直に実感できる感覚なのです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント