■節子への挽歌156:2つの世界に生きる2人の私がいます
節子がいなくなってから4か月もたったのに、まだ節子の不在が心身で理解できずにいます。頭では理解しているのですが。
この状況はなかなかわかってもらえないでしょう。
自分でも理解しがたいですから。
2つの世界に生きる私がいるのかもしれません。
節子のいない世界を生きる自分と節子がいる世界にとどまっている自分です。
後者の世界の私にとっては、時間が止まっています。
今も節子のベッドが置かれていた部屋でこれを書いていますが、顔をあげるとベッドの上で私に笑いかけている節子の笑顔が見えるのです。
もちろんベッドさえも今は無いのですが。
節子のいない世界には進みたくないという思いが、私をとどめているのでしょうか。
その一方で、時間は私の思いなどとは関係なく進んでいます。
笑われそうですが、節子がいないのにどうして世界はこれまでと同じように進んでいくのだろうかという馬鹿げた思いを持つことも少なくありません。
しかし、当然のことながら私の周りの世界の時間は今までと同じように進み、私の周りでもさまざまな事象が起こっています。
そうした節子がいない世界においても、実は私は節子の死をまだ受け入れられずにいるのです。
周囲の変化や時間の経過についていけずにいるわけです。
私の世界の中心だった節子がいない世界などあろうはずがないという気がどうしてもしてしまうのです。
身勝手なことで恥ずかしいですが。
しかし、そうした時間が動いている世界の中で生きていかないといけないという現実は否定できません。
その世界に完全に身を任せれば、楽な生き方ができるのかもしれません。
しかしそれは、節子への裏切りであるばかりでなく、節子の世界にとどまっている自分を抹殺することになります。
そんなことはできるはずがありません。
節子の世界に置いてきてしまった自分と新しい状況に付きあわなければいけない自分。
「時間が癒してくれる」どころか、実際には時間が2つの私を引き裂いてしまっているのです。
時間はどうして前にしか進まないのでしょうか。
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