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2008/02/21

■節子への挽歌172:複雑な迷い

節子
さびしくしていませんか。
いつものように大きな声で笑っていますか。

毎朝、あなたの前で般若心経を唱えていますが、あなたもそちらで唱えていますか。

般若心経の後、あなたの友人や私の友人たちの祈りもしていますが、最近、ちょっと迷いがでてきています。
というのは、あなたはもしかしたら、早くみんなにも来てほしいと思っているかもしれないという思いが、私の意識の底にあるような気がしてきたからです。
ですから、節子に、みんなの幸せを一緒に祈ろうねと言いながらも、節子が早くこっちにこない、と呼んでいるかもしれないという気が時々するのです。
それに、みんなまだこっち側で幸せになろうね、と私が祈ることは、節子のほうにはいかないでという願いですから、節子への裏切りではないかという気もしてきたのです。

なんとまあ、おかしなことを考えていることかと笑われそうですが、毎朝の節子の前での祈りの時には、そんなことがとてもリアルに感じられるのです。
もっとおかしなことをいえば、写真の節子の顔も毎日、表情が違うような気さえするのです。
気のせいか、最近、節子のしわが増えてきました。
単に写真が古くなっただけかもしれませんが、そう思わないところが愛する人を失った人間の気持ちなのです。
まあ、「論理的」でないのです。
しかし、人の「いのち」が生まれたり、消えたりすることそのものが、そもそも「論理的」ではないのですから、そんな気持ちが起こっても当然でしょう。

そんな複雑な思いを持ちながら、毎日、いろいろな人の名前を思い出しながら、それぞれの平安を祈っています。
しかし、人の「平安」って何なのでしょうか。
きっとそれは大きな意味での自然のなかで、流れるように生きることなのでしょう。
振り返ってみると、私は素直に生きてきたつもりが、むしろ流れに棹差し、平安を破るような生き方だったかもしれません。
そのことは、このブログの時評編を読むと一目瞭然です。
節子のおかげで、人の平安とは何かに気づき出しましたが、ちょっと遅かったかもしれません。
その気づきを褒めてくれる節子がいないのが、とても寂しいです。
褒めてもらえないと考えはなかなか現実につながらないのです。はい。

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