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2008/02/22

■異質な世界への感度の喪失

私が大学を卒業した年に制作された映画「3匹の侍」を久しぶりに観ました。
「7人の侍」のように、なぜこの映画は西部劇にならなかったのだろうかと思っていたのですが、侍とは農民だったということが基調にありすぎるために無理だったのだと気づきました。ちょっと自分勝手な解釈かもしれませんが。

あらすじはこうです。
ある村で代官の厳しい取立てで疲弊した百姓が、参勤交代で村を通る領主に直訴しようということになり、それを邪魔されないように代官の娘を人質に取ります。
百姓などの世界に触れたことの全くない娘は、そこで自分を犠牲にしても支えあっている百姓たちの世界を垣間見ます。食べるものがないのに、自分たちは食べずに人質の自分には食べ物を提供していることに気付くのです。
そしてそうした百姓たちを、自らの生命を賭してまで味方する武士に惹かれてしまうわけです。
結局、武士は捕らえられ、直訴を企てた百姓の代表たちは刺客によって殺されてしまいますが、武士は代官の娘によって助けられます。
まあ、こんなあらすじですが、百姓たちの現場に触れることで、生き方が変わってしまった代官の娘が、その後、どうなっていくのか気になります。

最近の情報社会では、さまざまな世界が自分の世界の中にいながらにして見ることができます。
北朝鮮のこともチェチェンのことも、六本木族のこともホームレスのことも、テレビが映像で見せてくれます。
私たちは、代官の娘と違って、もはや「そんな世界のことは知らなかった」とはいえなくなってしまっているのです。
しかし、あまりにさまざまなことを知りすぎてしまったために、逆に代官の娘ほどの感受性を失ってしまっているおそれもあります。
あまりにも違う世界は、もしかしたらテレビドラマの世界と同じにしか感じられなくなってしまっているのかもしれません。
そうでなければ、もっとみんなやさしくなっているはずです。

「3匹の侍」に戻ります。
百姓に味方していた侍たち、それが3匹の侍なのですが、彼らは殺された百姓たちが生命を賭けて書いた直訴状を見つけます。そして道端で参勤交代の行列を送っている百姓たちに、それを届け、だれか領主に直訴するように呼びかけます。
しかしだれもそれに応じるものは出てきません。
直訴すれば自らの生命を失いかねないからです。
そのうちに行列は通り過ぎてしまいます。

結局、代官は侍に殺されますが、その農村は何も変わりません。
最後に「結局、勝ったのは百姓だ」と侍たちに言わせた「7人の侍」とは違い、陰鬱な結末です。
2つの映画の製作時期の社会状況が影響しているようですが、この映画はまさに東京オリンピックの年、高度経済成長に向かいだした1964年の作品なのです。
ちなみに「7人の侍」は1954年、まだ戦後状況が残っていた時代の作品です。

感性の鋭い人には表面に現れていない時代の流れの先が感じられているのかもしれません。
いまの時代は、どう見えているのでしょうか。
最近の映画やテレビドラマを見るのがとても恐ろしい気がします。
いえ、事実恐ろしいです。

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