■節子への挽歌153:生き急ぐ生き方への反省
節子
あなたのことを思い出すたびに、今も胸が痛みます。
愛する人に会えない心の痛みは消えることがありません。
今日は、節子が書いた「1日の旅 おもしろや 萩の原」の額をみながら、
コタツで越路吹雪と和田あき子を聞いていました。
今朝はとても早く目が覚めてしまったので、とても眠いのです。
越路吹雪のシャンソンの歌詞をこんなにゆっくり聴いたのは久しぶりです。
とても心に沁みてきます。
昨日、節子がいなくなってから変わったことを書きましたが、一番大きな変化に今気づきました。
眠気がとんで、目が覚めました。
変わったのは「生き方」です。
生き急ぐ生き方をやめたことです。
こんなにボーっとして自宅で越路吹雪を聴いたことが、この30年、あったでしょうか。
節子の体調が悪くなって、ベッドで横になっている時でさえ、お互いに何かしていたような気がします。
少なくとも、話をしていましたね。
話すことなど必要なく、ただ黙って2人一緒に越路吹雪を聴けばよかったのに、
昔の家族のビデオを見たり、節子の足を揉んだり、いつも何かをしていたような気がします。
大切なのは、何もせずに、ただ並んでいることだったのだ、といま気づきました。
何かをしないといけないという強迫観念が、私たちにはきっとあったのでしょうね。
何もしないことの大切さを、私は頭ではわかっていたし、そうしようと心がけてきたはずなのに、
一番大切な節子との最後の数か月、それを忘れてしまい、「治す」ことばかり考えていたような気がします。
それは私が一番避けたがっていた「明日のために生きる」生き方だったかもしれません。
節子は、明日よりも今日、と言っていました。
私もそれに賛成したはずなのに、実際には、今日よりも明日を考えていたのかもしれません。
その根底には、私の生き急いでいる生き方があったのでしょうね。
今やっとそれに気づきました。
最近、どうも身体が動かないのですが、
それは私の身体がそうした生き方から抜け出ようとしているからかもしれません。
明日のために生きるのではなく、今をしっかりと生きること。
節子がそのことを私に気づかせてくれたのでしょうか。
シュバイツァーは、産業社会の中で、人々は自由を失い「過剰努力」をしていると指摘したそうですが、
その意味が少しわかったような気がします。
節子、もう生き急ぐのはやめます。
ゆっくりと、あなたのように、毎日をしっかり生きるようにします。
ありがとう、節子。
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