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2008/02/07

■節子への挽歌158:2つの元気さ

今日は2つの元気の話です。

先週、広島のOさんから電話があり、元気そうな声で安心したと言われました。
このブログを読んでくださっている方は、私が全く元気を失っているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
元気がないのは事実ですが、元気なのも事実なのです。
私に会った人は、なんだブログに書いているのは創作か、と思うほどに元気に見えるかもしれません。
もちろん創作ではなく、むしろ現実よりも少しだけ明るく書いているつもりです。

しかし、誰かと会ったり、電話したりしている時には、以前の私とそう変わらない私になります。
表情や声ではなく、気分が、です。

人には「変わる自分」と「変わらない自分」があります。
節子との別れで、そのことを改めて実感しています。
時評のほうで一度書きましたが、それは「ゾーエ」と「ビオス」の2つの私がいるからです
ゾーエとは「個人としての生の自分」、ビオスは「社会の一員としての自分」と言ってもいいでしょう。
もちろんそれらはつながっていますが。

ここから話がややこしくなるのですが、私の場合は、ゾーエにおいては元気を失い、ビオスにおいては元気なのです。
平たく言えば、人との付き合いにおいては元気になれるのですが、その根源における意識においては、気を削がれているわけです。
にもかかわらず、実は変わったのはビオスとしての自分であり、変わらないのはゾーエとしての自分なのです。
もっとややこしく言えば、気が削がれてしまったゾーエとしての自分が、無意識の世界において、此岸を超えて、すべてにつながりだしたという意味で、新たなる気を得ているのに対して、社会との接点にいるビオスの私は社会とうまく同調できずに気が出てこない面もあるのです。
節子とのつながりが強いのは、いうまでもなくゾーエの世界だからです。

でも、それと元気とは少し違っています。
唯識論の世界の話になってしまいそうなのでやめますが、要するに、私は元気であって元気でないわけですが、いずれにおいても違う意味で実は元気なのです。
ますますややこしくなってしまったでしょうか。

人はみんな2つの「元気」を持っている、それに気づいたのは最近です。
私はこれまで、さまざまな人の「元気」と付き合ってきましたが、その後にあるもう一つの「元気」への気遣いが足りなかったかもしれません。

いなくなった節子は、まだまだいろいろなことを気づかせてくれます。

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