■節子への挽歌162:「そうかもう君はいないのか」は誰に話しているのでしょう
城山三郎さんの「そうかもう君はいないのか」が出版されましたが、私も今なお、同じような言葉を口に出すことが少なくありません。
でも城山三郎さんの本は購入する気になれずにいます。
昨年、新聞で記事を読んだ時には、雑誌に掲載されたというのですぐに書店に行きました。
その書店にはその雑誌はもうなくなっており、正直少しホッとしたことを覚えています。
読みたいようで、読みたくない、そんな気分でした。
いまはむしろ読む気力が萎えています。
本を読んでいないので、勝手な推測なのですが、城山さんはきっと亡き奥さんと毎日たくさん話をしていたのだと思います。
そして時折、返事が返ってこないのを訝しく思って、はっと気づくわけです。
「そうかもう君はいないのか」
私には実にリアルです。
その言葉もまた、亡き奥さんへの言葉なのです。
以下は城山さんの話ではなく、私の場合です。
私の場合は、「そうかもう節子はいないのか」と声に出した後で、むしろ節子への話をしだしてしまいます。
「そうかもう君はいないのか、でもちゃんと聴いていてくれるよね」という思いがあるからです。
つまり、「もう節子はいないのか」と言う言葉は、実は節子がいないことを信じていないことの自己確認の言葉なのです。
節子、君はいないけれど、今でも一緒だねということを声に出して確認することで、自分を鼓舞しているわけです。
私がいなくなった後、娘たちは「そうかお父さんはもういないのか」と口に出して言ってくれるでしょうか。
たぶん言ってはくれないでしょう。
それが親子と夫婦の違いではないかと私は思います。
愛情の多寡の問題ではなく、関係の違いです。
同居していない人にとっては、私と違う意味で、愛する人の死は実感できないものだと思います。
私も何人か経験があります。
今でも節子さんから電話がかかってくるような気がしてならない、と何人かの人から言われました。
HKさんは、携帯電話に電話してみようと思うのだが、もしかしたら「この電話は使われていません」と言われそうなのでやめているとメールしてきました。
「もしかしたら」ではなく、間違いなくそうなのですが、その気持ちがよくわかります。
私も含めて、たくさんの人の心の中に、まだ節子がいるのであれば、なくなったのは身体だけなのでしょうか。
とすれば、「そうかもう君はいないのか」という私の言葉に、「ここにいるのにまだ気づかないの」と節子は言っているかもしれませんね。
ところで、城山さんは奥さんに会えたでしょうか。
時々、そのことを考えてしまいます。
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