■節子への挽歌160:結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれません
節子
またNHK「ちりとてちん」の話です。
病床の師匠に、主人公が、大好きだった祖父を亡くした時のことを思い出して、もう二度とあんな思いをしたくない、大事な人が大好きな人が遠くへ行ってしまうのは嫌だと泣きながら話します。
師匠がいいます。
それがいやならお前が先に死ぬしかない、そうしたら俺が悲しい思いをすることになる、おれにそんな思いをさせたいのか。
表現はかなり違いますが、まあそういうことです。
節子を送った時、私も何回か師匠と同じことを考えました。
これほどの悲しさや辛さを節子に与えることがなくてよかったと思ったのです。
私がいなくなって、節子ひとりだったら、果たして耐えられたかどうか、私が節子に依存していたように、実は節子もまた私に依存していたからです。
節子はしっかりしている部分ととても頼りない部分がありました。
私たちは本当に似たもの夫婦だったのです。
しかし、ちりとてちんの場合と私たちの場合は、事情が全く違うのです。
師匠は死ぬのには順番があるといいますが、私たちはその順番が違っていたのです。
私は節子より4歳年上です。
私が先に逝くのが順番なのです。
その順番が守られなかったことが、ともかく悲しくて辛いのです。
ですから、もし私が先に逝っても、多分節子は私ほどの辛さは体験しなかったでしょう。
最近はそう考えるようになりました。
事実、節子は、私を見送れないことが一番の心残りだと話したこともあります。
ですから、ますます節子が不憫でなりません。
そして私自身もまた不憫でなりません。
別れを悲しんでくれる人がいないのですから。
娘は悲しんでくれるでしょうし、友人も悲しんでくれるでしょう。
しかし残念ながらそれは伴侶の悲しみとはたぶん全く違うでしょう。
私自身、同居していた両親を見送りましたが、悲しみの質が違うのです。
死を悼む気持ちは、それぞれ別々で、比較などすべきではないことはわかっていますが、伴侶の死は極めて異質なのです。
それも自分より若い伴侶の場合、恐ろしいほどに辛いものです。
まだ結婚されていない方は、ぜひとも年上の人と結婚することをお勧めします。
結婚とは、愛する人を送るためのものかもしれない、そんな気さえ、最近しています。
ドラマの中で、師匠は、「お前より先に俺が死ぬのが道理。消えていく命を愛おしむ気持ちが、だんだん今生きている自分の命を愛おしむ気持ちに変わっていく。そうしたら、今よりもっともっと一生懸命に生きられる。もっと笑って生きられる」と主人公に言います。
この言葉は、残念ながらいまの私には全く共感できずにいます。
しかし、自分以外の人たちの命を愛おしむ気持ちは強くなってきています。
私の命は、他者の命によって支えられていることを強く実感し出しています。
| 固定リンク
「妻への挽歌01」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- 節子への挽歌1~4(2007.09.06)
- ■節子への挽歌200:今年のお彼岸の中日は雨でした(2008.03.20)
- ■節子への挽歌199:カトマンズのチューリップ(2008.03.19)
- ■節子への挽歌198:ミラボー橋(2008.03.18)
コメント