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2008/02/08

■私の生き方

バタイユという変わり者の思想家が、ある本でこう書いているそうです。
「私は、悪意のある人にはほとんど語りかけておらず、そうではない人たちに私のことを見抜いてくれるように求めているのである。友愛の目さえ持っていれば、かなり遠くまで見ることができる。私は説教師の本を書いているのではない」

何だかトゲのある文章ですが、とても共感できます。
私は本を読むときに、自分が共感できるところだけを理解しているような気がします。
本は自分の中にある思いを具現化したり気付かせたりするだけのものなのかもしれません。
集合的無意識の世界で、人の知識や情報はすべてつながっているとしたら、そう考えてもおかしくはありません。

このブログの内容はかなり独断的であるばかりか、論理的にも破綻していることが多いと思います。
ですから、論理的な説明や、現実的な可能性を問われると応えられないのです。
時々、メールや電話をいただきますし、ブログへのコメントももらいますが、しっかりした質問に答えられないこともあります。
困ったものです。

昨日、こんなコメントをもらいました。
そこにも簡単に答えましたが、とても重要な問題なので、あえてここでも書かせてもらうことにしました。

>その発想は、どうすれば実現できるのでしょうか?
>正直に言って、全くの机上の空論としか思えないのですが…。

ご指摘のように、このブログで書いてあることのほとんどが机上論なのです。
ただあえていえば、そのほとんどが私の生活にはつながっているのです。
ですから私には「空論」ではなく、「実論」なのです。
そして、その発想を実現するのは「自分サイズ」で考えると簡単なことなのです。
「やればいい」のですから。
一挙にはできないとしても、その方向に向かって一歩踏み出せばいいのです。

「空論」と思う人には、それは確かに「空論」です。
しかし「空論」であろうとやってみようかと思う人も、いるかもしれません。
そうして歴史は変わってきた、と私は思っています。
歴史は変えるものではなく、変わるものかもしれません。

私の好きな西部劇に「荒野の7人」という映画がありますが、そのなかでスティーブ・マックィーン扮するヴィンが、こんな話をします。
裸でサボテンに抱きついた男がいる。なんでそんなことをしたのかと訊いたら、その時はそれが良いことだと思ったんだ、と答えた。
大学生の頃から、このせりふが好きでした。

良いと思ったことに向かって少しずつ生活を変えていくことは誰にでもできるはずです。「少しずつ」というところがみそですが。
それがみんなに広がるかどうかは分かりませんが、100匹目のサルという話もあります。
10年では実現不可能でも、100年では実現できるかもしれません。

要は、できるかどうかではなく、やるかどうか、です。
それも、「やらなければいけないかどうか」のではなく、「やりたいかどうか」です。
それが私の生き方でした。そして今もそれをできるだけ大事にしています。

開き直ったようで、すみません。

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