■節子への挽歌169:生命を所有していた節子、身体を所有していた節子
熊野純彦さんの「レヴィナス入門」を読んでいたら、こんな文章に出会いました。
レヴィナスはナチス政権下に生きたユダヤ人です。偶然にも生き残ったのですが。
親しかっただれもかれもいなくなってしまってなお、世界はありうるのか。そうであるなら、世界の存在そのものが無意味ではないだろうか。(中略)難しい文章ですが、とても共感できます。
中心を喪失し、意味を剥落させた世界が、なおも存在する。存在し続けている。そのとき、たんに「ある」ことが、どこか底知れない恐怖となるのではないか。
熊野さんの「差異と隔たり」(岩波書店)も並行して読んでいますが、奇妙に心惹かれるメッセージが多いのです。
節子との別れを体験する前であれば、熊野さんの本は単に理屈だけの本と受け止めたでしょうが、いまはとても素直に実感できます。
同じ本に、ヒトラードイツが滅んだ後の風景に関して、こんな記述があります。
物理的に破壊された世界、砲弾によって挟まれた街並みはやがて修復される。修復された街並みは無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。世界内では「あらゆる涙が乾いてゆく」。空恐ろしいのは、そのことである。気持ちが痛いほど伝わってきます。
人の死とはいったい何なのか。
節子を看取って以来、ずっとそのことを考えていますが、何もわかりません。
そもそも「死」という概念がおかしいのではないかという気さえしだしています。
大きな全生命系にとって、個人の死は私の毛髪が1本ぱらっと抜け落ちるのとそうかわらないのかもしれません。
そう遠くない先に、私もまた同じように抜け落ちてしまうのに、どうしてこうも空恐ろしいのか、不思議です。
死に対する恐ろしさは全くないのですが、いまここに「あること」が恐ろしいのです。
「差異と隔たり」に、
私は私の生命を所有する、というよりも、むしろ生命こそが私を所有している。
というような記述が出てきます。
手塚治虫の「火の鳥」は、まさにこういう発想に貫かれているように思いますが、そう考えるととても納得できることが多いです。
私が愛しているのは、生命を所有していた節子なのか、身体を所有していた節子なのか、どちらなのでしょうか。
私は節子の生命も身体も、共に深く愛していたことは間違いなく、それは不二なものだと思いますが、もう少し考えたい問題です。
この問題を考えて行くと、なんだか節子に会えるような気がしてならないからです。
今日はちょっと心の深遠を書いてしまいました。
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