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2008/02/27

■節子への挽歌178:「ひとは過去についても祈ることがある」

祈りは未来に向かっての行為でしょうか。
毎朝、節子の位牌の前で祈りながら、過去に向かって祈っている自分に気づくことがあります。
いまの私にとっては、むしろ祈りは過去へのものになっています。

祈りですから、ある希望を込めているわけですので、変わることのない過去への祈りは成り立たないいかもしれません。
しかし、あの時の節子が喜んでいてくれますようにとか、あの時の私の対応をゆるしてくれますようにとか、ついつい祈ってしまうのです。
節子に関して言えば、過去も現在も未来も、私のなかでは同じものになってしまっているのかもしれません。
そんな思いを持っている時に、こんな文章に出会いました。

ひとは過去についても祈ることがある。他者の死こそが、取り戻しようもなく、抹消不能で、決して現在に回収されることのない、真の「外傷」となるからである。外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い。祈りが切迫したものとなるのは、過去こそが過ぎ去らず、回復不能であること、過ぎ去ったものこそが打ち消し難いことを、ひとが思い知る時である。(「癒しの原理」石井誠士)
10年以上前に読んだ本ですが、先日、何となく書棚にあるのに気づき読み出しました。
この本を読んでいるうちに、実は精神的にかなり不安定になってしまいました。
あまりに自分の心情に重なってくるからです。
それに、やはりまだ「死」について書かれている本は読むのが辛いのです。
心のどこかに、節子の死を受け入れていない自分がいるのです。

過去こそが過ぎ去らず、回復不能であることという言葉は心を突きます。
過ぎ去る過去もあるでしょうが、伴侶の死、愛するものの死は決して過ぎ去ることはありません。
むしろその過去の事実が、心の中で育ちだすような気がします。
まさに「外傷の深さは測りがたく、疼きは癒し難い」のですが、それだけではなく、その疼きが育ちだしてしまうのです。
もちろん育つのは悲しみだけではなく、喜びもあります。
節子と一緒に過ごした日々の楽しさが甦ることもあるのですが、しかし無残なことに、その喜びもまた確実に死によって突然閉ざされます。
人は誰も、そしていつも、死に向かってはいるものの、おそらく普段はそんなことは「意識的」には意識しないでしょう。
しかし、過去から始まる物語は、過去において完結してしまっているのです。
それに対処するには、祈りしかありません。

「ひとは過去についても祈ることがある」。
最近は、祈るという行為は過去に向けられているのかもしれないと思うようになりました。
未来はすでに過去において決められているのかもしれません。

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