■食事時間は生存のための必要時間でしょうか
一昨日、餃子事件に関連して食について書きましたが、思い出したことを書きます。
ある会で「人間が自由に使える時間をどう使うべきか」という議論がありました。
生存のために必要な睡眠と食事時間を外すと1日15時間、とある人が説明し出したら、異議が出されました。
食事は必要時間ではないのではないか。
みなさんはどう思われますか。
食は栄養補給の意味もありますが、それ以外の意味がたくさんあります。
家族一緒に食べる食事は家族をつなげる場でしたし、友人との会食は心を開いたふれあいの場でした。
子どもにとっては、それはまさに「教育」や「マナーを学ぶ場」でもありました。
しかし最近は、家族が一緒に食事をするのではなく、食べるものも時間も別々という家庭も少なくないようです。
子どもたちのお弁当も、いまやコンビニ弁当というような話も聞きますし、今回の報道でも冷凍庫にお弁当用の冷凍食品があふれている風景がしばしば流れていました。
なんだかとても心配になってしまいます。
餃子に農薬が混入されたことよりも,こうした食の実態こそが問題なのではないかと思うほどです。
みんな食の効用を忘れてしまっているのではないでしょうか。
もっと食を楽しむ余裕をもてないものか。
テレビで、餃子はまた手づくりにしますと答えていた人がいましたが、調理も含めて食は私たちにとって生存のための時間ではなく、生活文化そのもののような気がします。
食のあり方のなかに、私たちの文化の本質が秘められているような気がします。
今回の事件は、そうしたことを私たちに問題提起してくれたように思います。
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