■「必ずしも適切ではなかったと考えております」
「艦長である私に全体の責任はあると思います」
「問題がなかったとは思っておりません」
イージス艦「あたご」の艦長の記者会見での言葉です。
艦長が吉清さん宅に謝罪に行った時の物腰などから、艦長の誠実さは伝わってきますが、この言葉にはどうも違和感が残ります。
いずれも記者会見でよく聞く言葉のパターンです。
石破大臣が、事件当日に「あたご」の航海長を呼び寄せて防衛省内で事情聴取をしていたことが今日、判明した事に対して、「必ずしも適切ではなかったと考えております」と話していますが、これもよくあるパターンです。
いずれの発言にも「主体としての自分」が感じられません。
観察者の言葉です。
言葉には、発言者の立ち位置が明確に出てきます。
観察者は責任に背を向けています。
こうした言葉は、政治の世界だけではありません。
いまや自分自らさえも、観察者的に見てしまう生き方が広がっているように思います。
その象徴は、いまの福田首相かもしれません。
しかし、その一方で、社会の現場では当事者主権の動きが広がっています。
当事者が自ら動き出してきたのです。
お上依存の民としてではなく、自分の人生を生きるひとが増えています。
世界が二つに分かれ出しているような気がしてなりません。
バーチャルな世界とリアルな世界への方向です。
その跛行現象の先行きに大きな不安を感じます。
私自身は一応、後者に軸足を置いているのですが、前者の世界からのノイズは予想以上に大きいです。
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