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2008/03/11

■節子への挽歌191:なぜ追悼文をかきたくなるのか

またOSさんの手紙の話です。

OSさんは「追悼文集」をつくったと書いていました。
私の知人たちの中に、同じように先立たれた妻の追悼文集を創った人は何人かいます。
私も文集ではないですが、こうやって毎日書き続けています。

なぜこうやって思い出を書き残したくなるのでしょうか。
自分がその立場になるまでは、私はそれが理解できませんでした。
しかし、自分がその立場になると、何らかのかたちで妻のことを書き残しておきたいという気持ちが自然と起こってきました。
告別式の日に、前日までみんなの前で挨拶などは絶対にするまいと思っていました。
節子とのことは誰かに話してもわかってもらえるはずがないし、話せばきれいごとになるか、あるいは事務的な紋切り型になるかしかないから、私の性には合わないと思っていたのです。
ところが告別式の前夜、節子の顔を見ているうちに、彼女がみんなにも話してほしいと言っているような気がしてきたのです。
そして、前にも書いたように、話し出したらつかえることもなく、言葉がすらすらと出てきたのです。書き残すことさえできたのです。
どう考えても、節子が私に語らせたとしか思えません。

追悼文もそうかもしれません。
この世との接点をなくした妻が、書かせているのかもしれません。
節子は日記が好きでしたので、自分が書けなくなったので、代わりに私に書かせているのかもしれません。
そしてたまたま私は書くことに全く抵抗のない人間だったのです。
これ
もそう仕向けられていたことなのかもしれません。

このブログもそうですが、追悼文は第三者にはほとんど無意味のものです。
例えばこのブログですが、毎日のように読んでくれている人が(きっと)いますが、その方は(きっと)節子か私の友人です。
しかし友人だからといって、読んで意味があるかは疑問です。
でももしかしたら、節子とちょっとだけ触れ合えるのかもしれません。
節子のことを知らない読者からもメールをもらいますが、もしかしたらその人たちはどこかで節子と接点がある人かもしれません。
どこか、と言う意味は、今生ではなく前世もしくは来世という意味です。
輪廻転生を信ずる者としては、これからもこのブログを書いていこうと思っています。
そしてお会いしたことのない読者がもしいたら、いつかお会いできるのを楽しみにしています。
お会いするのは来世かもしれませんが、

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