■節子への挽歌211:ボヘミヤの農夫の疑問「死があるとすれば、生とはいったい何か」
昨日の話に続いてしばらく「生と死」への思いを書きます。
今から600年前に書かれた「ボヘミヤの農夫」という本があります。
読んだことはありませんが、死生観などに言及した本を読んでいると出てくるので、記憶に残っていたのですが、気になってネットで調べてみたら、「死をめぐる自己決定について」という本の存在を知りました。
ちょっと興味がありますが、いまは読むエネルギーがありません。
もう少し元気になったら読んでみようと思います。
ところで、「ボヘミヤの農夫」は、人間が死と裁判して争うという話です。
妻を亡くしたクリスチャンの農夫が、神はなぜこのような死という惨いものを人間に課するのかとして、「死」を殺人罪で告訴するのです。
被告になった「死」は、自分は主であり、人間は主に服従しなければならないと抗弁します。
生が神の創造によるものであるならば、死もまた神自身の創造によるそれ自体意味のあることなのだというわけです。
そこには人間的な「救い」は見出せません。
逆に、次の疑問が生じます。
最初から否定されることが決まっている「生とはいったい何か」
生の終わりが不可避であり、いかなる生も結局無に帰するのであれば、生きること自体が意味のないことではないのか。
手塚治虫の死で私が残念だったのは、「火の鳥」が未完で終わってしまったことです。
宇宙史的な構想のもとに描かれた作品「火の鳥」の物語がどう顛末していくかに大きな関心を持っていたのですが、手塚治虫の死によって、その構想は永遠に消失してしまったのです。
彼の死は、同時に手塚治虫の膨大な知識と構想が無になった瞬間でもあったわけです。
彼が生み出した「構想」は一体なんだったのか。
そういうことを考えると、個人の生や営みなどは些細な挿話でしかないのです。
わずかばかりの挿話にどのような意味があるのか。
しかも、その挿話は必ず「死」に向かっているわけです。
人生において、苦労することの意味は何なのか、
しかし、死を意識してから、その時々を懸命に生きていた節子は、
逆に死を意識しない生を生きていたのかもしれません。
まさに、般若心経がいう「無老死亦無老死盡」の境地だったのかもしれません。
些細な挿話を、誠実に善良に生きること にこそ、生の意味があるのかもしれません。
最近の事件と重ねながら、節子のことを思い出すと、奇妙に納得できることが多くなってきました。
ところで、ボヘミヤの農夫がキリスト教の信仰を捨てたかどうか、
それについて知っている人がいたら教えてくれませんか。
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