■節子への挽歌186:強い人同士の夫婦と弱い人同士の夫婦
昨日の記事の続きを書きます。
長くなったので、2回に分けることにしました。今日は後編です。
KYさんが、私たち夫婦と佐藤夫婦とはどこが違うのかしら、と言いました。
ご主人が、「おれにはあんな挨拶は出来ない」といったのだそうです。
私は即座に、「強い者たち同士の夫婦」と「弱い者たち同士の夫婦」の違いだと思います、と答えました。
そんな言葉が出てくるとは、私自身思ってもいませんでしたが、自分の思ってもみなかった言葉が口から出ることはよくあることです。
最近、気のせいかそういうことが増えています。
ですから、その言葉は、私に向けての言葉でもあったわけです。
このブログを読んでくださっている方はもう感じているでしょうが、私は「弱い人間」です。
一人では生きていけずに、誰かが寄り添ってくれていないと倒れてしまいそうなのです。そして、節子もまたそういう人だったことは、私が保証します。
本当に頼りない弱い人でした。私よりは強かったですが。
しかも、いずれも自立しようとか依存を止めようとか全く思わなかったのです。
夫婦間においては、自尊心や自立心が全くなかったのです。困ったものです。
しかし、弱い者同士が一つになるとなぜか強くなるのです。
弱さをさらけだすことで、強くなれるのです。
KYご夫妻は、それぞれがしっかりした活動に取り組み、社会的な存在感もあります。
それにそれぞれが自立し、自分の世界をお持ちです。
理想的な夫婦と言っていいでしょう。
わが家とはかなり違います。
詩(のような言動)は弱さから生まれます。
決して強さからは生まれません。
詩は強い人には戯言でしかありません。
もしそうでないとすれば、強い人の弱い面に訴求しているのです。
言い換えれば、その時がくれば、その人からも詩が生まれます。
弱いと強いとはコインの裏表です。
どちらが体験されるかは分かりませんが、KYさんご夫妻も、きっと私の立場になったら、詩のようだと思う人がでてくるような、作品を共創するはずです。
その時にきっと、私の今の心境と言動を理解してくれるでしょう。
人は、強さと弱さを持っています。
そのどちらの面を表面に出して生きているかどうかによって、生き方は変わってきます。
伴侶の死に直面してもなお、強い生き方が出来る人もいるでしょうか。
そんな人はいるはずもない、と今の私には思えてなりません。
お互いに弱さを見せることで夫婦の絆は強まるように思います。
だれにでもお勧めというわけではありませんが、弱さを共有してしまうとすごく快適になるような気がします。
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