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2008/03/17

■守るものと攻めるものの立場

最近の政治状況とそれに関するさまざまな論評を聞いていて感ずるのは、「守るものの強さ」と「攻めるものの弱さ」です。
状況を変えることの難しさがよくわかります。
たとえば、日銀総裁人事に関しても、民主党は政権奪取のための「政局」にしてしまっていると批判されていますが、それがなぜ駄目なのか。
守る側にとっては、政局化は困るでしょうが、攻める側は政局は数少ない手段の一つです。
事象を評価する基準の多くは、どうも「守る側」にあるようです。
かつては逆のような気がしていましたが、社会が変質してしまったのでしょうか。

政策はさまざまな施策の全体像に関わっており、総裁人事もそれだけで考えればいいわけではありませんが、ニュースになれば、みんなそれだけで考えてしまいます。
ガソリン暫定税の一般財源化に関して、賛成だが時間が必要だと自民党の石原さんはテレビの討論会で「時間軸」を強調していましたが、これもまた守る側の論理です。
時間軸を長くするほど、守る側には好都合ですが、攻める側は時間が勝負です。
さらに個別問題で考えるのも守る側には有利です。

「変化に対する抵抗意識」は、人間の本性のひとつです。
「守る側」にとっては、当然、変化は忌避したいことですが、国民はどうでしょうか。
おそらくわが国の場合、ほとんどの国民が自らを「守る側」に位置づけているでしょう。
ささやかな平安を守りたいと思うのは、これまた人間の本性の一つだからです。
「ゆでがえる現象」というのがありますが、日本はまさに「国民総ゆでがえる」なのかもしれません。

そうでない国もあります。
チベットでは暴動が広がっています。
「暴動」という言葉が、すでに「守る側」の用語ですが、世界はそれを違和感なく受け入れています。
自分の生活に関わりの少ない地域での事件に関しては、みんな「守る側」の視点で考えがちなのも現実かもしれません。
攻める側が厳しい目で見られる現実の中で、改革をどう進めていくか。
そうしたところへの深慮が、いまの民主党にはかけているような気がします。
それは民主党の議員もまた、大きな意味では「守る側」にいるからかもしれません。

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