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2008/03/25

■節子への挽歌205:「同時代をただ生きているだけで価値ある実在」

節子
先日、20年近く会っていない、元若い友人からメールが来ました。
CWSコモンズには書いたのですが、私のホームページを久しぶりに読んで、節子との別れのことも含めて、私の近況を知ってくれたのです。
彼に最後に会ったのは、オゾン戦争について取材に来た時かもしれません。
たぶんオープンサロンには来たことがないので、節子は会ったことがないかもしれませんが、私にはとても心に残る若者でした。
今はもちろんもう若者ではありませんが、たぶん若者の心を残しているはずです。
会いたい気分と会いたくない気分が半々です。

彼はこう書いてきてくれました。
私にとっては過分な「褒め言葉」です。

実際にはずっとお会いしていませんが、僕のほうは、そうでもないのです。
佐藤修さんは、僕が社会に出てからお会いした人たちの中では、最初に会ったときから、人生の先輩として、はじめて人として尊敬できる人だったからです。
以来、遠く離れていたり、ずっとお会いしていなかったりしても、
僕の想念の中では、幾度となくお会いしていて、お話していて、お世話になっているので、
いつでも同時代を生きている、ただ生きているだけで価値ある実在です。
「同時代を生きている、ただ生きているだけで価値ある実在」
よく読んでみると、これは褒め言葉ではないかもしれませんね。
「ただ生きている」ことに価値があるということは、今の時代には価値のある活動をしていない実在という意味でもありますから。
彼のことですから、それくらいのシニカルな含意は十分に込められているはずです。
いやはや。

しかし、実はこれはまさに私が理想としていた生き方なのです。
そして、私が節子に望んだ生き方でもありました。
節子もまた、私に同じことを思っていたはずです。
まさか外部から同じ言葉が送られるとは思ってもいませんでした。

夫婦とは、お互いにただいるだけで価値ある実在なのです。
その関係が、夫婦や家族だけではなく、まわりの人たちとの関係においても、そして無縁の人たちとの関係においても、広げられるならば、それほど幸せなことはないでしょう。
そんな夫婦を目指したいと、私たちはどこかで共有していました。
しかし、その一歩を踏み出す前に、節子は「生きていること」をやめてしまいました。
その衝撃がいかほどのものか、彼にはわかったのかもしれません。
空の青さへの私の思いを分かってくれた人ですから。

私にとって、「ただ生きているだけで価値ある実在」だった節子はもういません。
それどころか、節子以外のそういう人たちが、最近、次々といなくなっています。
その寂しさは大きいです。
でも一人とはいえ、同時代を生きていることを喜んでくれている人が、節子のほかにもいたことはうれしいことです。
祝福された気分になります。
節子、私も少しはだれかの役に立っているのかもしれません。

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