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2008/03/08

■「いま何時?」

フーテンの寅さんを演じた渥美清さんは物の所有から自由な人だったと何かで読んだことがありますが、腕時計も嫌いだったそうです。
こんな言葉が残っているそうです。

「時間も他人に聞いてすむ生き方をしたい。
おい、いま、何時だと、そういう生き方でいきたい」
渥美さんに比べると私はまだまだ物欲が強いのですが、この時間に対する感覚だけは少し似ています。
腕時計はこの40年したことがありませんし(一時、時間とは全く無縁な理由で半年ほど時々はめていましたが)、今でも「いま何時?」と周りの人にたずねる生き方をしています。
そのせいで迷惑をかけることもありますから、ほめられた話ではないのですが、自分としては全くといっていいほど不便は感じません。
これに関しては以前一度書きました

その時は、腕時計を外すと時間から解放されるというようなことを書きましたが、今から考えるとそう思うことこそが時間に拘束されていたのだと思います。
渥美さんのことを読んだ時に、そのことに気づきました。

時計を外した効用は、「いま何時?」と質問できることです。
質問できることが効用だというのもおかしな話ですが、要は自己完結していない弱みを持てるということです。
そのことによって、周辺との関係性を変えるこができるということです。

携帯電話にしろiPodにしろ、個人はますます自己完結的な方向に進んでいるように思います。
言い換えれば周囲との関係性を断ち切る生き方を目指しているようです。
誰かとのつながりを求めているような面もありますが、自らを隠したままの一方的な関係を目指していることが多いように思います。

ネット社会でのつながりは一方的なものも多いです。
しかし自らの正体を見せずにつくられた関係はほとんど意味がないような気がします。
そうした虚構の関係性の中で、さまざまな「人間関係もどき」が「コミュニティもどき」を構築していきます。
時にそれが「機能性」を発揮し、社会的パワーになることもあります。
ネットを通した署名運動は、そのひとつです。
しかし、そうした虚構のコミュニティや機能主義的コミュニティは、私自身どうもなじめません。

話が飛躍してしまいましたが、「いま何時?」と周りの人に聞いていた、渥美さんの生き方は、私たちが失ってしまいつつある何かを示唆しているような気がします。

ちなみに、街中で知らない人に「いま何時ですか」と訊ねるのは、意外と楽しいものです。

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