■道路が必要なのか、道路工事が必要なのか
道路整備の問題はいろいろと議論が盛り上がりながらも、結局、衆議院ではこれまでの延長で決まってしまいました。
本当に不思議ですが、自民党独裁の体制の中では仕方がないのかもしれません。
それにしてもいろいろと問題が出てきても、結局は多数決の論理で決められてしまう状況は変えられないものなのでしょうか。
道路整備に関して、自治体がいろいろと要望を出していますが、これまでの道路建設の実態を調べれば、無駄な道路工事はたくさん出てくるはずです。
その実態は断片的には報道されますが、全体像が見えてきません。
政治のやることは、その全体像を可視化することだと思いますが、与野党いずれもそれをやりませんし、研究者や有識者もそれに取り組みません。
なぜでしょうか。
全体像が見えないままに議論できるのでしょうか。
ところで、道路建設が必要だといっている人たちの思いの真意には、「道路が必要」と「建設工事の仕事が必要」という2種類があるように思います。
その両者を峻別していく必要があるはずです。
後者の面からの必要論も少なくないと思いますが、工事仕事の面から言えば、極端に聞こえるかもしれませんが、無駄な道路をつくるほど工事量は増えるという構造があります。
現に工事途中で建設が中止された場合、例えば建設途中の橋の撤去解体という新たな仕事も発生するからです。
仕事が欲しいのであれば、無駄な道路ほど効果があるのです。
つまり「仕事」がほしい人にとっては「無駄な道路」ほど「必要」なのです。
これまでも何回も書いてきたように、近代産業は、無駄こそが需要の源泉というジレンマを内包しているのです。
そんなことはやるはずがないと思いたいですが、例えば河川をコンクリートで囲い込む護岸事業を進め、それが行き渡ったら今度は自然に戻そうという動きに変えるように、造っては壊し、壊しては造るのが税金を使って事業をする人たちの事業観なのです。
税金とはちょっと違いますが、社会保険庁の事業観はその象徴です。
巨額なお金でつくった立派な施設が安く処分されても、だれも責任を取らせられず、またとらないのです。
こうした発想の根底には、ニューディール政策的な失業対策事業発想があるように思います。
道路などつくらずに、お金を仕事のない人に支給したほうが効果的だと思いますが、それを正当化する論理がまだ構築されていないだけの話ではないかと思います。
仕事をつくることが福祉につながる、社会の活性化につながる、などといった貧しい時代の経済発想の呪縛から解放されるべき時期に来ています。
おそらくいまは、貧しさの意味合いも大きく変わってきているのです。
道路工事がほしいなら、単に仕事がほしいと言えばいいだけです。
さらに仕事よりもお金がほしいといえばいいだけです。
そんな気がしてなりません。
それに、地域活性化とは仕事を増やすことなどでは断じてありません。
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