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2008/03/03

■節子への挽歌183:喜びの中にある悲しみ、悲しみの中にある喜び

むすめたちが、玄関とリビングに小さな雛人形を飾ってくれています。
節子がいなくなっても、その時々の季節を象徴する飾り立てをする文化は継承されています。
オフィスだけはちょっとさぼっていますので、季節感覚がなくなっていますが。

節子が行ってしまってから、今日で半年です。
まだ半年と言うべきでしょうか。
これほどの長さが、まだどれほど続くのか。ちょっとゾッとします。

この半年、悲しみは癒えたかといえば、全く癒えることはありません。
深まったわけではありませんが、心身にしっかりと定着してしまった感じです。
その悲しみが、私の心身の一部になってしまっています。
そのせいか、喜びが感じられなくなってしまったような気がします。
これはちょっと寂しいことです。

今もなお、写真の節子が呼びかけてくれるのではないかと思うことがあります。
誰もいないはずの階下で音がしたり、玄関に近づく足音を聞いたりして、あなたの姿を探すこともあります。
いつもあなたはいません。

それにしても節子がいないだけで、どうしてこんなにも世界の風景は変わってしまうのでしょうか。
なぜだろう、とよく考えるのですが、わかりません。
それ以上に、なぜこんなにも時間がありあまっているのかと思うことが多くなりました。
最近は10時に就寝し、何となくぼんやりと過ごしていることが多いのです。
節子がいた時に、どうしてこういう時間がつくれなかったのでしょうか。
いつもお互いに何かやっていましたね。

いまもやらなければならないことは少なくありません。
仕事も始めましたので、実は時間は足りないほどなのです。
でもやる気が起きない。
時間が無いのに、時間が余っている、そんな毎日です。
不安だけが高まっています。
困ったものです。

半年が過ごせたのなら、1年も大丈夫でしょう。
1年大丈夫なら、10年は大丈夫でしょう。
人はそうやって悲しみと共生していくのでしょう。
そして、きっといつか、その悲しみの裏にある喜びに気づくのでしょう。

節子との生活では、喜びの中にある悲しみと付きあってきたような気がします。
しかし、これからはどうも悲しみの中にある喜びと付きあうようにしないといけません。
人生観を大きく変えないといけません。

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