■「自らの間違いを認めない」文化の震源地
「横浜事件」の再審で、最高裁は14日、有罪か無罪かに踏み込まないまま、裁判手続きを打ち切る「免訴」判決を確定させました。
要するに、裁判所が犯した罪を認めなかったということです。
自らを裁かない裁判所の本質を露呈させた判決でした。
この国では、検察も裁判所も、また弁護士も裁かれることはないのかもしれません。
裁かれることのない権威が、人を裁く構造とは、神権国家の構造です。
法曹界は「司法改革」に取り組んでいますが、基本にある裁判のパラダイムは全く変わっていません。
改革とは程遠い話です。
横浜事件で不条理で、正義に反する判決を下した裁判官が、戦後もその立場を失わなかった国ですから、ドイツとは全く違います。
その国で、そうした人たちが進める司法改革がどういうものであるかは明らかです。
裁判員制度も、その枠の中から出てきたものでしかないと思いたくもなります。
今回の判決は、要するに「自らの間違いを認めない」ということです。
この姿勢が、いまの日本の統治構造の根底にあります。
「行政の無謬」神話は決して過去のものではないのです。
いま問題になっている新銀行東京の都議会の議論を聞いていれば、それが露骨に感じられます。
「裁判の無謬」もまた強く残っています。
自らの間違いを認められない人間が、人を裁けるはずはありません。
裁判だけではなく、おそらく政治も同じでしょう。
後任日銀総裁の件に象徴されるように、自らは無謬だとしている福田政権の姿勢は、あまりにも露骨ですが、あまりとがめられずにいます。
国民に、政府無謬信仰があるのかもしれません。
産業界は、最近、ようやく自らの間違いを認めることの意味を理解しました。
しかし、日本の政治も司法も、まだその段階にいたっていないようです。
横浜事件の最高裁判決は、そのことの現れのような気がしてなりません。
遺族の方たちの無念さを思います。
裁判官のみなさんは、そのことを恥ずかしく思わないのでしょうか。
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