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2008/03/07

■三浦再逮捕と一事不再理の原則

日本の裁判で無罪になった「ロス疑惑」の三浦さんがサイパンで逮捕された事件が話題になっています。
私には大きな興味がありますが、それは今のマスコミで騒がれているような意味ではなく、「一事不再理の原則」に関係して、です。
「一事不再理の原則」は今の時代に合わないルールだと思っていますし、国際的に考えれば論理的に納得できないルールです。
いまの司法、とりわけ刑法分野の司法の問題の本質が、そこに現れているように思います。

日本国憲法39条(「何人も、・・・既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」)が、いわゆる「一事不再理の原則」の根拠です。
また、同条には「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とも定められています。
この一事不再理の原則は、多くの国家で採用されている刑事裁判の大原則です。
「市民的及び政治的権利に関する国際規約」でも、「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない。」(14条7項)と定められています。
ある事件の犯人と疑われた人が、それ以後、ずっと逮捕の恐怖にさらされるという非人道的な事態が起きないようにするための制度だといわれています。
問題は、今回のように、事件が発生した国と判決が出された国が違うように、こうした原則が国境を越えた場合にどうなるかです。
グローバリゼーションのなかで、国境の壁はどんどんなくなり、一事不再理の原則は国境を越えていくという見方が多いかもしれませんし、いまでもすでに一事不再理の原則は国境を越えているという人も多いでしょう。
しかし、私には大きな違和感があります。

まず国境を越えるということに関していえば、たとえば国家による法体系が違うなかで、一事不再理の原則だけが国境を超えるということは論理的に整合しないはずです。
しかし、私にとってもっと大きな関心は、刑法体系のパラダイムです。
これは刑法に限ったことではなく、憲法についてもいえることだと思いますが、そのことが特に象徴的に出てくるのが刑法です。

国家の暴力に対して国民を守る、これが現在の刑法の「建前としての」パラダイムだと思います。
ですから被害者よりも加害者の人権が重視されがちだったのです。
一事不再理の原則もまた、そうした文脈の中で考えられるべきですし、時効制度もそうだと思います。
罰則の決め方も多くの場合、「○○以内」というように上限が極められています。

極端な言い方になりますが、そうした発想の根底には、「冤罪」の発生が予想されています。
実証することはできませんが、「冤罪」が予想されるシステムのもとでは、冤罪は発生しやすくなるはずです。
人が予想し想像したことは必ず実現するのが人の世ですから、いまの司法体系の中では冤罪は生まれるべくして生まれると、私は思っています。

一事不再理の原則の根底にある人権的な考えには異論はありません。
しかし、裁判も間違いのあることですから「不再理」を原則にすべきではないと思うのです。
もっと柔軟な発想が必要です。
最近の横浜事件の話と不再理原則は全く別の話かもしれませんが、私にはどこかで通底しているように思います。
光市母子殺害事件の弁護士団の動きに対して、法曹界の中からはほとんど何の動きも出なかったことも、そこに通じているような気がします。
裁判員制度への問題提起がやっと始まったようですが、司法のパラダイムの見直しこそ必要ではないかと思います。

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