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2008/03/23

■価値を創りだすのは感性か利得か

友人と話していて、ゴッホの絵の価値が話題になりました。
私はゴッホの絵はほとんど好きではありませんので、たとえ1万円でも買わないでしょう。
数十億円の値段がつくのを、いつも不思議に思っています。
私にはあまり価値もない退屈な作品でしかありません。

芸術が貨幣換算されるようになったことは、私には不幸なことのように思われます。
それによって作品を見る目が曇らされたような気がします。
感性ではなく、知識で作品を見るようになってしまいました。

価値を与える仕組みは必ずといっていいくらい、権力や支配につながっています。
安物の茶器が、茶道の仕組みの中で高価な値がつけられ、権力の道具にされたように、物の価値は、その物自身によってではなく、外部から与えられるものです。
それが当事者との関係において語られているうちはいいのですが、支配の具にされるとおかしなことになっていきます。

その話で私が思い出したのは、最近テレビでみた、ゴッホの贋作を大量に作成し、安く売っている中国のある村の話です。
買うほうはもちろん贋作と知って買っていくのですが、その贋作でも心を豊かにする人がいるのであれば、それでいいのではないかという気がします。
私自身は「知的所有権」に違和感を持っている人間ですので、贋作にあまり違和感はないのですし、気持ちが豊かになるのであれば、贋作でもいいではないかと思います。
そのたくさんの贋作のなかに、ゴッホが描いた本物の作品があったとして、その中から一番好きなものを選べといわれても、私には本物を選ぶ自信はまったくありません。
もしそうならば、私にはどれでもいいわけです。

感性のなさを指摘されそうですが、感性は極めて個人的なものであり、外部から強制されるものではありません。
「感性がない」などという言葉の意味もよくわかりません。
そんなことをいうと、美意識は磨けないのかと叱られそうですが、もちろん磨けると思いますし、また磨くべきだと思っています。
ただ、「感性がないという感性こそが感性のないことではないか」
という気がするのです。
あれれ、これは、クレタ人はみんな嘘つきだと言ったクレタ人のように、パラドックスですね。

感性は、本当にパラドキシカルな概念です。
論じてはいけません。
ましてや価格をつけてはいけません。

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