■価値を創りだすのは感性か利得か
友人と話していて、ゴッホの絵の価値が話題になりました。
私はゴッホの絵はほとんど好きではありませんので、たとえ1万円でも買わないでしょう。
数十億円の値段がつくのを、いつも不思議に思っています。
私にはあまり価値もない退屈な作品でしかありません。
芸術が貨幣換算されるようになったことは、私には不幸なことのように思われます。
それによって作品を見る目が曇らされたような気がします。
感性ではなく、知識で作品を見るようになってしまいました。
価値を与える仕組みは必ずといっていいくらい、権力や支配につながっています。
安物の茶器が、茶道の仕組みの中で高価な値がつけられ、権力の道具にされたように、物の価値は、その物自身によってではなく、外部から与えられるものです。
それが当事者との関係において語られているうちはいいのですが、支配の具にされるとおかしなことになっていきます。
その話で私が思い出したのは、最近テレビでみた、ゴッホの贋作を大量に作成し、安く売っている中国のある村の話です。
買うほうはもちろん贋作と知って買っていくのですが、その贋作でも心を豊かにする人がいるのであれば、それでいいのではないかという気がします。
私自身は「知的所有権」に違和感を持っている人間ですので、贋作にあまり違和感はないのですし、気持ちが豊かになるのであれば、贋作でもいいではないかと思います。
そのたくさんの贋作のなかに、ゴッホが描いた本物の作品があったとして、その中から一番好きなものを選べといわれても、私には本物を選ぶ自信はまったくありません。
もしそうならば、私にはどれでもいいわけです。
感性のなさを指摘されそうですが、感性は極めて個人的なものであり、外部から強制されるものではありません。
「感性がない」などという言葉の意味もよくわかりません。
そんなことをいうと、美意識は磨けないのかと叱られそうですが、もちろん磨けると思いますし、また磨くべきだと思っています。
ただ、「感性がないという感性こそが感性のないことではないか」
という気がするのです。
あれれ、これは、クレタ人はみんな嘘つきだと言ったクレタ人のように、パラドックスですね。
感性は、本当にパラドキシカルな概念です。
論じてはいけません。
ましてや価格をつけてはいけません。
| 固定リンク
「文化時評」カテゴリの記事
- ■パンのためのバラ(2019.08.21)
- ■日馬富士が断髪しながら貴ノ岩に語りかけていたのを見て幸せになりました(2019.02.03)
- ■前の記事の補足です(2018.09.30)
- ■「アイヌ民族否定論に抗する」をお薦めします(2018.09.30)
- ■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告(2018.06.24)
コメント