■善良で誠実な人生に訪れる不条理な事件
先日の岡山駅での不幸な事件で、被害者、加害者双方の父親がテレビで語っていた様子がずっと頭に残っています。
事件そのものは、とても不幸な悲劇ですが、お2人の発言が救いになるとともに、同時にそれが悲しさを増幅させます。
加害者の父親は、苦労をしながら息子を育ててきたのだと思いますが、事件を知った時の衝撃はいかばかりだったでしょうか。
しかも前日に土浦の若者の無差別殺人事件を見ながら、こんなことはしてはいけない、と息子と話し合っていたというのも、とても哀しい話です。
どうしていいかわからないと、とつとつと口から出てくる言葉に、真実を感じます。
なぜこんな善良に生きている人に、こんな不条理な事件が起きるのか、やりきれない感じがします。
被害者の父親は、本当は腹の中は煮えくり返っているといいながらも、加害者には社会に役立つ生き方をしてほしいと語りました。
善良な人柄だけではなく、その生き方の誠実さが伝わってきます。
突然に遭遇した事件によって、人生は一変してしまったでしょう。
一変してしまって、しかもなお、強靭に善良さと誠実さを維持している人も少なくないでしょう。
いや、むしろほとんどの人がそうかもしれません。
不条理な事件を体験した人たちの、その後の生き方の報道に接すると、ほとんどの場合、その後もまた善良で誠実な生き方をされているのがよくわかります。
痛みを知ることで、それまで以上に善良で誠実な生き方を大切にすることのほうが多いのかもしれません。
人はみんな基本的には善良で誠実なのでしょう。
にもかかわらず、こうした不条理な事件が起きつづけるのはなぜでしょうか。
加害者は、なぜそうした行動を取るのか。
おそらく加害者を取り巻く環境、人間関係、心身的な状況などが、そうさせると考えるべきでしょう。
そう考えれば、加害者もまた被害者というべきかもしれません。
戦場で戦う兵士たちは、多くの場合、自分自身としては敵軍を殺傷したいなどとは思っていなかったはずですが、それが自らの役割だと動機づけられ、それが「愛国心」だと意識づけられるのです。
それによって戦場では合法的な加害者と被害者が殺傷しあうわけです。
戦場と日常の社会では状況は違いますが、連続的なつながりをもっています。
昨今のように競争を扇動する社会では、そのつながりは決して細くはありません。
そうした意識で事件を見ていくと、本当の加害者は実は私たちみんななのかもしれません。
私たち自身の生き方が、問われていることを痛感します。
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