■節子への挽歌210:生命の意味は犠牲にある
「荒れ野の40年」という感動的な演説で有名な、ドイツの政治家ワイツゼッカーは、「生命の意味は生活の存続にあると考えがちだが、むしろ生命の意味は犠牲にある」と言っています。
私たちは、自分のために生きているけれども、実は他者のために生きているのだというのです。
節子を見送った今、この言葉が自然に心に入ってきます。
節子は自分のためにではなく、私たちのために生きていたのであり、節子の生は私のためのものだったとさえ思えるのです。
節子が、私たちのために犠牲的な生を送っていたということではありません。
そうではなくて、私たちの喜びこそが節子の生きがいであり、私たちとの関係において、節子は生きる時間を得ていたという意味です。
ここでいう「私たち」とは、広がりのある言葉です。
節子の場合、その核には伴侶だった佐藤修という個人がいて、そのまわりに家族がいて、親戚友人がいて、隣人知人がいて、世界の人々がいて、さらに花や鳥がいて、宇宙があってというように、無限に広がっていくわけです。
しかもそれが、華厳経にあるようなインドラの網のように統合的につながっているわけです。
ワイツゼッカーがいうように、私たちは、他者のために死ぬことによって生き、他者の死によって生きているのです。
他者の生が私たちの食卓を可能にしてくれていますし、私たちの生に何がしかの意味があるとしたら、その意味を享受するのは他者でしかありません。
こう考えていくと、死者を弔い、死者を供養するのは、実は自分を弔い供養することなのかもしれません。
今日、いつものように、節子の墓の前で節子の笑顔を思い出していたら、「生命の意味は犠牲にある」というワイツゼッカーの言葉がなぜか頭に浮かんできました。
節子は私のために生き、去っていったのです。
その節子の生を無駄にしてはいけないと強く思いました。
そのためにも、節子のための私の生をこれからどう生きるべきか、きちんと考えようと思っています。
まだどう考えればいいか、全くわからないのですが、少なくとも善良に誠実に生きたいと思っています。
節子に再会した時に喜んでもらえるように。
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