■節子への挽歌240:人生の記録は、自分ではなく、まわりの人の心身に刻み込まれている
節子
福岡の話をもう少し書きます。
今回、10人を超える人たちと出会い、話をしました。
偶然の出会いもあれば、予定した出会いもあります。
気になっている人は少なくないのですが、そのうちのお2人にはお会いできました。
GさんとSさんですが、いずれからも思ってもいなかった話が出てきました。
いつも元気で、笑顔を絶やさないお2人の後ろにも、たくさんのドラマがあることを知りました。
2人とも節子はたぶん会っていませんが、私から話を聞いているはずです。
そのGさんとSさんです。
Gさんは父上を昨年10月に見送りました。
節子と同じ病気でした。
Sさんはもう完治されていますが、やはり同じ病気の疑いで胃を全摘されています。
2人に会って何を話すというわけでもなかったのですが、いろいろと話が出てきました。
話しながら思いました。
笑顔の向こうにあるドラマが生死につながっているほど、笑顔は豊かになってくるのかもしれないと。
もう一つ思ったことがあります。
自分の人生の記録は、自分の心身にではなく、まわりの人の心身に刻み込まれているものだと。
お2人と話していて、私以上に過去の私のことを知っているようです。
冷や汗が出るような話をいくつか聞かされました。
私の人生を一番よく刻み込んでくれていた節子が先に逝ってしまったことは、私の記録と記憶の半分以上は現世からは消失したということです。
そして節子の記憶と記録は、私の心身の中にまだしっかりと残っています。
なにやら複雑な気分です。
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