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2008/04/13

■権力の乱用

いまさら取り上げるのもいかがなものかとも思うのですが、最近、自民党の福田首相や伊吹幹事長が発言した「権力の乱用」という言葉がずっと気になっています。
権力の中枢にいる人から、こういう言葉が出てくることをどう理解したらいいのか、おそらくそれは今の日本の政治状況の本質を読み解くための鍵ではないかと思うのです。
権力は上下関係を基盤にした概念です。
その上下関係を規定している価値基準を逆転させると、権力関係もまた逆転するのです。

最も弱いものが最も強くなることはよくあることです。
失うものがなければ被害は少ないわけですから、失うものという基準からは考えれば強くなれます。
こうした基準の転換が「革命」の出発点ですが、そうした発想の転換を封じ込めるのが教育の大きな役割です。
しかし、学習はそうした発想の転換を封じ込めはしません。
教育と学習の違いは大きいわけです。

日銀人事では4人も拒否されたといいますが、視点を変えれば、拒否しなければいけない人を4人も提案されたともいえるわけです。
しかし、権力者は自分の考えが正しいという考えをしますから、相手の反対だけが不条理に映ります。
そうした「自分の考えが正しい」という立場で、弱いものの立場を尊重しないことを、「権力の乱用」というのではないかと私は思っていましたから、権力の中心にある人から立場の弱い野党に対して「権力の乱用」などという言葉が発せられたことに、いささか頭が混乱してしまい、この数日、反応できずにいたわけです。
自らの権力の乱用の結果だという理解は、落ち目の権力者にはできないことなのでしょうか。
そして、本来の主権者である国民自体も、その発言をなんとなく受け入れてしまっている状況の危うさには、不安を感じます。

昨日書いた立川ビラまき判決横浜事件判決などを思うと、権力構造が崩れ出す予兆を感じます。
裁判官は、いままた「ヤニングの過ち」を繰り返さなければいいのですが。

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