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2008/04/26

■節子への挽歌237:経験したことがないほどの疲労感

また挽歌236の続きです。それも私の話です。
節子の涙を見た後、車で福岡の天神まで戻りました。
その途中、いろいろと加野さんとも話したのですが、どうも整理できません。
それほどの異常現象を体験したわけではありませんし、私の理解の範囲内のことだったのですが、どこかに奇妙な感覚が残ったのです。
タクシーの中で、加野さんが突然、飯田史彦さんの名前を言い出しました。
あの本で元気付けられましたと言うのです。
そういえば、加野さんに飯田さんの「生きがい」シリーズを送ったことがあったのです。
その言葉は、なんとなく私にその本をもう一度読み直したらどうかというように聞こえました。

今回はあまり書きませんでしたが、実は加野さんご自身がどこかに役行者を感じさせるところがある方なのです。
もう80歳を超えているのに、その身のこなし方は実に若いのです。
驚くような「危うい話」もあります。
石田梅岩にまつわる話まであるのですが、これは話題がはずれすぎますのでやめます。

ところで、私の心身に残った「奇妙な感覚」のことです。
それは加野さんと別れて4時間くらいした時に、突然やってきました。
心身から力が抜けだしたのです。
いや「力」というと正しくありません。
なにかもっと根源的な生命力のようなものです。
ともかくこれまで経験したことがないほどの倦怠感、疲労感が全身を襲ってきたのです。
あまりの辛さにすぐに寝たのですが、翌朝、起きてもまだ回復していませんでした。

ご祈祷の帰り際に庄崎師が若宮地黄卵を下さいました。
加野さんが私に持って帰れというのです。
東京まで持って帰るのは大変なので辞退したのですが、加野さんは一度決めたら後には引かないのです。
庄崎さんも加野さんも、私が死ぬほど疲れることを知っていたのでしょうか。
いささか勘繰りすぎですが、この疲れは何なのか不思議でなりません。
それからもう3日経ちましたので、今はほぼ回復しています。

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