■節子への挽歌212:不死を願うことは死を呼び込むこと
昨日の続きです。
節子は毎日を感謝しながら納得できるような生き方に心がけていました。
ブッダは「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て1日生きることの方が優れている」と言ったそうです(石井誠士「癒しの原理」)。
不死が無ければ、人生は、結局無に帰するのであり、不死であれば、1日も最も充実しているのだ、と著者の石井さんは言います。
確かに桜の花が1年中咲いていたら、感動は薄れるかもしれません。
以前、富士吉田市の市長と話していて、こんなに目の前に大きな富士山があると、毎日、元気が出ますね、といったら、当然の風景なので意識などしませんよ、といわれました。
地方に行って、すばらしい風景や文化に触れて感動することも多いですが、地元の人はそれが当然だと思っていますから、そう感動しているようには思わないこともあって、なんともったいないなどと思うこともあります。
節子は、いつも私の隣にいました。
朝起きればそこにいましたし、食事の時にはいつも隣にいました。
節子がいるのが、私にとっての日常風景だったのです。
節子と一緒にいることの幸せは、もちろん感じていましたが、
あまりに当然のことなので、その意味がわかっていなかったわけです。
いまは、ブッダの言葉の意味がよくわかります。
死が、生を輝かせてくれるのかもしれません。
花は枯れるからこそ、その輝きに感動させられるのかもしれません。
限られた時間であればこそ、私たちは思い切り輝けるのかもしれません。
だとしたら、不死を願うことは死を呼び込むことなのかもしれません。
「死」にはやはり大きな意味があるのです。
節子は、死をもって私に何をメッセージしたかったのでしょうか。
節子がいなくなってから、節子の本当の価値や私たちの関係がわかってきました。
来世ではきっと現世よりもいい関係を構築できるでしょう。
私は節子に、「節子と一緒だったら3万年一緒にいても飽きない」と時々話していました。
節子は必ずしも同意はしませんでした。
もう飽きかけていたのかもしれません。
もしかしたら、私に飽きてしまって来世に行ってしまったのかもしれません。
そうだとすると、来世でまたよりを戻すのは苦労かも知れません。
いやはや困ったものです。
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