■節子への挽歌231:家族を送るさびしさ
節子
今でも時々、節子宛の手紙が届きます。
DMや雑誌などが多いのですが、時々、何かの集まりのお誘いがきます。
先週、「憲法を考える市民の集い」の案内が届きました。
節子がよく知っている人が世話人をされている関係で、きっと名簿にリストされていたのでしょう。
その方は、節子の葬儀にも来てくださいましたので、もちろん節子のことは知っています。
こうした手紙を受け取った時、遺族はどう感ずるかです
私はいささか常識的ではないので、あまり一般論にはならないかもしれませんが、決して悪い印象はありません。
私の場合は、むしろうれしい気がします。
なぜなら、節子の世界に触れることができるからです。
家族を亡くしたことのある人はきっと体験されていると思いますが、家族が一人いなくなるとそれ自体が寂しさをもたらしますが、それだけではありません。
その人が付き合っていた世界との縁が薄くなるのです。
その分、お客様も電話も減ります。
話題も減れば、家族生活の多様性も減少します。
その影響はけっこう大きいのです。
家族を失う寂しさとは、そういうことです。
私はこれまで3人の同居家族を見送りました。
昨今の核家族の風潮の中では多いほうでしょう。
同じ家族でも、同居しているかどうかで、その寂しさは全く違います。
それは体験してみないと決してわからないでしょう。
核家族化の問題は、そうした実感を社会からなくしてしまったことではないかと思います。
死が体験ではなく、情報になってしまったのです。
節子への手紙は、たとえDMであろうと私にはうれしいものです。
しかし、そういう手紙もだんだんなくなっていくのでしょう。
ますます寂しくなりそうです。
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