■節子への挽歌232:「心はからだの外にある」
先週、箱根に合宿に行っていました。
企業の経営幹部の研究会のアドバイザー役なのですが、議論していて、ギブソンのアフォーダンスの話になりました。
そこで以前読んだ「心はからだの外にある」という、河野哲也さんの本をみなさんに紹介したのですが、箱根からの帰路、その本の書名が気になりだしました。
「心はからだの外にある」。
河野さんは、「心は身体と環境の関係性に存する」というのです。
私の心は、環境と無関係に在るのではなく、私を取り巻く環境との関係において存在するというわけです。
すごく納得できる話です。
正確性には欠けますが、ここは思いつくまま気楽に書きます。
節子がいなくなって、半身が削がれただけではありません。
心が不安定になったのです。
確かに身体はここに在るのに、心はどこかに行ってしまったような気が、時々するのです。
「心ここにあらざるごとく」という言葉ありますが、まさにそんな感じで、自分の心がつかめなくなります。
そして冷ややかに自分を見ている自分(こころ)に気づくことがあるのです。
環境によって「心」は大きく変わります。
「気持ち」とか「考え」ではなく、「心」そのものがです。
節子がいなくなって、そのことを実感し続けていることに昨日、気づいたのです。
遺影に使った節子の写真を見ていると、心が安定します(他の写真は逆です)。
私の頃は、環境との間にあるとしても、その最大の環境は節子だったのです。
節子が遠くに行ってしまったために、私の心は自らの立ち位置を決められずにいるのかもしれません。
節子の写真の笑顔を見ていると、ちょうど中間に私たちの心が微笑んでいるような気がします。奇妙に実感できるのです。
私を見ているのは、写真の中の節子だけではなく、その写真と私の中間から眼差しが発せられているような気がしてなりません。
つまり、私自身が見られている感覚があるのです。
私の心を形成しているのは、しかし、節子だけではありません。
節子以外のあらゆる環境が、全体として私に働きかけ、私の心を実体化させてくれています。
環境によって揺れ動く私の心に大きな座標軸を与えてくれていた節子との距離感が代わってしまったことで、私の心はいまきっと不安定になっているのでしょう。
節子の心もまた同じように、いま私との距離感をつかめずに、不安定になっているのではないかと思います。
やっと気づいたの、修らしくないわね。
遺影写真の節子が、何だかそういって、笑ったような気がしました。
いや、笑ったのは私たちの心かもしれません。
私が気づかないところで、私たちの心は一体化してしまっているのかもしれない。
そんな気もします。
ギブソンや河野哲也さんの話とは全く違った話になってしまいました。
すみません。
これ以上書いていくと、危うい話になりかねません。
このあたりで中途半端に終わります。
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