■節子への挽歌241:人を介さずに、自らの心身で節子の声を観ずるように、早くなりたい
節子
福岡報告を書き続けてきましたが、もう1回書いて終わりにします。
しめくくりは、やはり祈祷所の話です。
昨日、福岡の加野さんから電話がありました。
疲れたでしょうという電話でした。
そして、でも奥さんの声を聴けて安心したでしょうとも言いました。
安心しましたと応えました。
それは間違いない事実です。
が、今日はその大日寺の体験を反故にしかねないことを書きます。
このブログは私の気持ちを正直に書くことにしていますので、書かないわけにはいきません。
いまのところ私の霊能力は生起していません。
仏教では山川草木悉皆仏性といい、すべてのものに仏性があるといいますが、
その仏性とは霊能力と言ってもいいでしょう。
それは顕在していなくとも、潜在していると思います。
なぜなら「在ること」そのものが不思議なことであり、
それを説明するにはやはり論理を超えた拠り所が不可欠だからです。
私には、しかし霊能力を意識できることはありません。
不思議さにおののくことはあって、不思議さを創ることはできません。
節子さえも守れませんでした。
ですが、時々、天からのメッセージのようなものを感ずることはあります。
おそらくすべての人が体験していることでしょう。
私の場合、かなり「小賢しい知識」に心身を占拠されていますので、
その体験の度合いは少ないかもしれませんが、
震えるほどの閃きを感ずることもないわけではありません。
霊能世界や彼岸の存在、したがって輪廻転生に関しては確信しています。
疑うことがないわけではないですが、それは自分を含めて誰か人が介する時です。
ですから、そうした世界にはできるだけ近づきたくないのです。
今回、大日寺での体験は、そのタブーを破ってしまったわけです。
節子への思いの強さが、タブーを超えて、私を呼び寄せたのですから、
それ自体霊の世界の存在を感じさせます。
そして、結果としては、節子の平安に触れ、私にはうれしいことでした。
加野さんと庄崎さんに感謝しています。
節子と私には、当然のことながら2人だけしか知らない事実がありますが、
そんなことよりも大切な日常的な、無意識に発する言葉があります。
節子は私を「お父さん」とは呼びません。
そう呼ばれるのを、私が大嫌いなのを知っているからです。
必ず名前で呼びあうのが私たちのつながりでした。
庄崎師の口から出てきた節子の言葉には、「お父さん」という言葉がありました。
その言葉を聴いた時、私は混乱しました。
庄崎師の言葉を疑ったわけではありません。
だからこそ混乱したのです。
言葉とは何なのか。
言葉は縁起を起こしますが、言葉の後にあるものがメッセージを込めて言葉になると思っています。
「修さん」ではなく「お父さん」には、メッセージが込められているのではないか、それが私の混乱の原因です。
考えすぎだと思う人がほとんどでしょう。
そうかもしれません。
福岡から戻った日、ウィトゲンシュタインの研究者の方から、華厳に関するメールが届いていました。
事事無碍法界に関する難解な話です。
観世音寺に行ってきたと返事を書いたら、「音を観る」ことに関する返事が戻ってきました。
彼岸との交流、ウィトゲンシュタイン、言葉、事事無碍法界、そして「音を観る」。
あまりにも見事につながっています。
録音してきた「節子の声」は、まだ聴けずにいます。
人を介さずに、自らの心身で節子の声を観ずるように、早くなりたいです。
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