■節子への挽歌248:時評と挽歌、愛と怒り
このブログには異質の2つの流れがあります。
時評と挽歌です。
私は毎日、この2つを書くようにしていますが、読む人はきっと混乱するでしょう。
時評と挽歌という、全く質の異なる文章がほぼ交互に出てくるからです。
しかし、時評と挽歌が混在していることを、このブログの特徴にしています。
その理由は以前、ゾーエとビオスという言葉を使って説明しました。
いつも読んでくださっているSKさんが思ってもいなかったコメントを送ってきてくれました。
佐藤さんの社会への怒りは、奥様への深い愛に基づいているのだということが、なんとSKさんは、私も節子も良く知っている人です。
なく感じられるようになってきました。
このメールをもらって、少し考え込んでしまいました。
そこでSKさんにどういう意味ですかと訊いてしまいました。
SKさんから返事が来ました。
ダライラマは「愛と思いやりがあればこそ、私たちは社会的な不正に怒りを持つ」と言っておられます。奥様への愛が、奥様と共に不正な社会への怒りとして発露しているように思うのです。佐藤さんの生を支えているのは、奥様の愛であり、奥様への愛が、佐藤さんを支えているように思います。私には過分な評価ですが、私が感じていたことを整理させてもらった気がしました。
時評と挽歌は、怒りと愛を分担していたのです。
実は時評編を書く時、いつも節子(妻)のことを思い出しながら書きます。
特に「怒り」の時には、彼女と共有していることを確認しながら書くことが多いです。
ここで書かれていることの多くは、私だけの怒りではなく、私以上に庶民だった節子の怒りでもあります。
節子は、いつも「修は怒りやすい」とたしなめていましたが、私は怒りがこみ上げてくるとなかなか止められないところがあります。
節子がいなくなったいま、節子の言葉を噛みしめるようにしています。
そのおかげで自制力が高まったねと娘たちからも言われるようになりましたが、それでも時々失敗します。
このブログでも失言は繰り返されていることでしょう。
怒りと愛は、たしかにコインの裏表です。
最近のジャーナリズムに、怒りがなくなったのは「愛」がなくなったからなのでしょうか。
この連休、私がやったことは辺見庸さんの著作を読みはじめたことだけです。
友人が、私のブログに書いてあるのと同じような文章が辺見さんの本に書かれている、まさか剽窃(もちろん私がです)しているんじゃないだろうねと電話してきたのが契機です。
読んだことのない他人の文章を剽窃するのは難しいでしょうが、文章の断片に触れていて、それが私の文章にでてくることはありえない話ではありません。
辺見さんの本は、これまで1冊しか読んでいなかったのですが、今回他の本を読み始めて、この人の凄さには圧倒されました。
あまりにも共感できる文章が多いのです。
残念ながらまだ私と同じ文章には出会っていませんが、辺見さんの文章で触発されたり、私の怒りが高まったりすることが実に多いのです。
まさにいま何かを書いたら、辺見さんの思いの剽窃になりそうです。
しかし、辺見さんの怒りは私のそれとは違い、説得力があります。愛の深さを感じます。
辺見さんは離婚しています。
にもかかわらず、どうしてこれほどの愛をもてるのでしょうか。
いささか無意味な疑問でしょうが、そう思わずにはいられません。
今回は挽歌編と時評編の統合編です。
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