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2008/05/08

■船場吉兆の「つかいまわし」の問題の所在

またまた船場吉兆がマスコミをにぎわせています。私には過剰報道に思えます。
もっと取り上げるべき問題があるでしょう。

食べ残しの使い回しは許されることではありません。
しかし、ほとんど手付かずのものを廃棄するのはどうでしょうか。
それは許されるのでしょうか。
地球上の飢餓人口が増えていることを思うと、それもまた許されないように思います。

わが家は、食べ残しを廃棄することはほとんどありません。
わずかばかり残ったものでも次の食卓に出てきます。
これは女房が育てた文化です。
私もそうした文化の中で育てられましたので、食材が無駄に扱われるのを見ただけで悲しくなります。
外食をして、食べ残した場合も、極力パックしてもらって持ち帰ります。
こうした文化の中では、自分が食べられる量だけ注文する姿勢がきちんと身につきます。
家庭農園で自作している野菜は、農家の人でも捨てるようなものまで料理に使います。
これも女房が娘たちに残した文化です。
ですから、今回のような問題には複雑な思いになるわけです。

問題の所在はどこにあるのでしょうか。
食べ残しを使いまわすこと自体には、衛生上の問題や顧客の期待の裏切り(一緒の偽装)という問題があります。
これはどんな理屈をつけようと許されることではありません。
以下は、それを前提としての議論です。

一番悪いのは、せっかくの料理を食べ残すお客なのではないかと思います。
出された料理をすべて食べなければいけないわけではありません。
私もどうしても食べられない場合があります。
味が受け入れられないとか苦手の食材がある場合もあるからです。
しかし残す量にはおのずと許される範囲があるはずです。
体調不良で、その量を超えた場合はきちんと謝罪すべきです。
お金を払ったからといって、料理を勝手に処分していい訳ではありません。
私は、そう考えています。

船場吉兆で手付かずに残す人はどういう人でしょうか。
食べられない料理まで注文すること自体が、私には許されない行為です。
謝罪している船場吉兆の社長以上に、私はそうした人の罪をとがめます。
もし料理が予想以上に多ければ、あるいは自分が食べられない料理があるのであれば、配膳の時に辞退すればいいのです。
良識のある人であれば、そうするでしょう。
接待を受けて、食べたくない料理も断れないようなこともあるという人がいるかもしれませんが、それはその接待を受けること自体が間違っています。
接待を受ける代わりに、その費用をどこかに寄付してもらえばいいわけです。

もったいないとかリサイクルが大事だとかいっている人たちはどう考えているのでしょうか。
とがめられうべきは、食べられもしない料理を注文する人たちであり、食べ残すことに罪悪感をもたない人たちです。
前の客の食べ残しを食べさせられたのは、その罰なのかもしれません。
因果応報なのです。
船場吉兆の人たちにも、そうした思いがあったのではないかと勝手に推測しますが、これはやや過剰推測でしょうね。

船場吉兆を責めるのは簡単です。
しかし、その前に私たちの食のあり方をこそ自戒すべきです。

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