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2008/05/15

■観客民主主義

この1週間、死刑制度のことばかり書いてしまい、世間で起こっていることには触れませんでした。中国での大地震、国会での3度目の再可決、サミット前座での労働省会議での連合と政府の不協和音など、いろいろとありましたが、一番、気になったのはミャンマーがサイクロン被害救済のチームを受け入れないという話です。
不思議に見えますが、これこそが国家の本質を顕在化させている事例なのでしょう。
やりとりしているうちにも多くの被害者が生命を落とし苦境にあることを思うと、国家とはなんと不条理なものなのかと改めて驚かされます。

福田内閣の支持率がさらに低下し20%になりましたが、福田首相は相変わらず自説だけが正しいと記者に応えています。
支持しないのは国民が愚劣だからと言っているわけですが、それに反発できずにいる私たちは確かに愚劣なのです。

現在の日本の体制は、普通の意味での民主主義社会とはいえないでしょう。
政府がやっていることは、ことごとく大半の国民が反対していることなのですから。
小泉元首相がクーデターにより、民主主義を壊し、安倍前首相が国民の臣民化の路線をかため、福田現首相がその上で、シミュレーションをしているというのが、私の感想です。
60年前の繰り返しが粛々と進んでいるのでしょうか。
彼らは一時流行った「違法にして正当」ではなく「合法にして不当」な行為を繰り返しています。
合法ですから逮捕できませんが、実質的にはそのもたらしたことの大きさは、昨今新聞を賑わしている小さな犯罪の比ではありません。
どれほど多くの人の生活を踏みにじることになるのでしょうか。
しかし、それが見えてきた時には、彼らはもういないわけです。

チョムスキーの民主主義社会の定義の話を思い出しました。
チョムスキーは、「メディア・コントロール」(集英社新書)の中で、こう述べています。

民主主義に関する一つの概念は、一般の人々が自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響を及ぼさせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会ということである。しかし、現在優勢な民主主義社会のもう一つの概念は、一般の人々を彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間の間だけで厳重に管理しておかねばならないとする社会である。

そして、後者を観客民主主義と名づけました。
日本もアメリカと同じく、立派な観客民主主義社会になりました。
観客は楽しむだけではありません。
そのお返しを、いつか必ず受けなくてはいけませんが、やっかいなのは、楽しみを享受する人と苦労を負わされる人とは、同じではないということです。

世代の生活が継承される日本の伝統は壊されてしまいました。
そんな気がしてなりません。

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