■死刑について4:身勝手に人を死に至らしめた人の生存を認める理由は何でしょうか
死刑について書くのは間をおいて時々と思っていたのですが、なぜか連日、刺激的な情報に出会ってしまいます。
もう一度、続けます。
朝日新聞の記事からです。
今月9日に行われた国連人権理事会作業部会で、欧州の多くの国から日本に対して、死刑執行の停止や死刑制度廃止を求める声があがったそうです。
また、国内でも、仮釈放のない「終身刑」の創設を目指す超党派の議員連盟が結成されたそうです。そこには死刑制度賛成派も反対派も参加しているようです。
すでに世界の2/3の国が死刑制度を廃止しています。
特にEUは死刑廃止を加盟条件の1つとしているばかりではなく、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。
その考え方は次のサイトに書かれています。
http://www.deljpn.ec.europa.eu/union/showpage_jp_union.death_penalty.php
国家と死刑制度の関係を考える上でも興味ある内容です。
統計的に調べたわけではありませんが、歴史的にみれば、死刑制度の対象になった人たちは政治犯が多いのではないかと思います。
死刑制度とは極めて「政治的」なものです。
そうした文脈での死刑制度と生活分野での死刑制度とはかなり意味合いが異なります。
もちろんそれらは繋がっており、政治が民事事件を利用することは少なくありません。
しかし、いまの死刑制度論議には、そうした異質なものが混在しています。
そこにこの問題の悩ましさがありそうです。
ところで、終身刑ですが、これもまた死刑以上に残酷な刑のような気もします。
生きるということをどう考えるかによって、評価は全く違ってくるでしょうが、私にはそう思えます。
私の迷いは、死刑を否定した場合、人を死に至らしめた行為をどう位置づけるか、ということです。
身勝手に人を死に至らしめた人の生存を認める理由が見つかりません。
ですから、死刑制度をなくすのではなく、死刑になるような事件が起きないようにするほうにこそ、関心を向けるべきだと思うわけです。
そのために、死刑制度が少しでも効果があるのであれば、残したらいいというのが現在の私の考えです。
そういう死刑制度の場合は、もちろん政治犯や冤罪の可能性が少しでもある場合は対象にはなりません。
区分けが難しいといわれそうですが、「疑わしきは罰せず」のルールがあれば問題は起きません。
なんだか無理やり帳尻を合わせようとしている気もしますが、考えれば考えるほど、悩ましくなっていくのが死刑制度です。
人の生き死にがかかっているのですから、当然な話ですが。
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