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2008/05/10

■死刑について2:国家からの暴力の奪還

国家の本質は暴力の独占にあり、それを象徴するのが死刑と戦争だといわれます。
最近の生政治学の捉え方では、少し言い方が違うのでしょうが、つまるところ死刑と戦争は最後の切り札としては担保されていますから、国家の本質という点では変らないでしょう。

私が死刑制度への違和感を持ったのは、映画「真昼の暗黒」でした。
実際にあった八海事件を題材にした映画です。
中学時代だったと思いますが、この映画を観てから自宅に戻る間、涙が出るほどの怒りを感じ続けていたことを鮮明に覚えています。
コタツで腕枕をしながら仲良く眠る逮捕前の被告夫婦の映像が今でも脳裏に焼きついています。
権力が無力な庶民の命を勝手に奪うことの不条理さがあまりに強烈だったために、以来、権力への嫌悪感が拭えなくなってしまったのかもしれません。
死刑は許されるはずがないと、思いました。
大学で法律を学んだ時も、いうまでもなく死刑廃止論者でした。

しかし、社会に出てみると、悪いのは権力者だけではないことを知りました。
身勝手な理由で、個人の尊厳を踏みにじり、あろうことか生命さえ奪う人がいる。
生命を奪った人の生命とはいったい何なのか。
国家との関係ではなく、生命を奪われた人との関係において、その生命を終わりにするべきではないか。
そうでない限り、生命を奪われた人の近くの人の生命もまた、奪われるのではないか。
そんな気がしてきたのです。
他者の生命を奪っておいて、なお生き続けることはできないのではないかと言い換えてもいいかもしれません。
そして数年前から死刑制度賛成論に変節してしまいました。
但し、身勝手な理由で他者の生命を意図的に奪った場合だけの話です。
冤罪の可能性がわずかばかりでもあれば、死刑は許されるべきではありません。
なぜなら過ちを決定的に正せなくなるからです。

しかし、国家を批判しながら死刑制度を受け入れるのは論理矛盾です。
その矛盾を回避するためには、死刑の執行者を国家権力から剥奪するしかありません。
それは同時に、国家権力者をも死刑の対象に加えるということです。
具体的に言えば、戦争による殺人も死刑の対象にするということです。
現在の日本の政府関係者(政治家や官僚)には、その該当者としての資格を持っている人は少なくありません。
国家から暴力を奪還すること。これこそが唯一の方法かもしれません。
問題はだれが奪還するかです。
そこで「マルチチュード」がでてくるわけです。

「死刑について」シリーズなど、書き出さなければよかったと後悔しています。
書くのが難しく、書けば書くほど、自分の思いとは違ったことを伝えてしまいそうな気がします。
でも、もう少し続けてみます。

今朝の朝日新聞に、死刑が犯罪を誘発するような見出しの記事がありました。
朝日新聞社の良識を疑います。

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