■「疑わしき」は救うべきか、切り捨てるべきか
福島第1原発で配管工事をしていた長尾光明さん(昨年末死去)が、被ばくで多発性骨髄腫というがんになったとして、東京電力に賠償を求めていた裁判で、東京地方裁判所は、国が労災と認めたのとは逆に、被ばくでがんになったとは言えないとして訴えを退けました。
国は主治医の診断や専門家の検討をもとに、被ばくで多発性骨髄腫になったとして労災と認めていました。
行政判断とは違った司法判断が出たわけです。
私がこのニュースに興味を持ったのは、ちょうど長尾さんが配管工の仕事をしていた頃、福島第1原発を見学した記憶があるからです。
その時に、下請けの下請けの作業現場の実態の説明を受けて唖然としました。
被爆する危険な作業を分単位で時間を区切って断続的に行っているということを知りました。配管の仕事ではなく、何かを取り替える作業でした。
原発にかける費用のほんの一部を向ければ、自動化できる作業だと思えたのですが、作業に当たっているのは季節工だという説明でした。
30年くらい前の話なので、記憶違いかもしれませんが、私が原発への不信感を持ちはじめたのは、まさにその時ですから、私には大きな衝撃だったことは間違いありません。
そこでは「人間」がまさに「安価な労働力」としか扱われていなかったのです。
原発が安全かどうか以前の問題です。
そうした人間観や仕事観を持っている東京電力には、原発事業を展開する資格はないと私は思いました。
そういうことを、ニュースを聞きながら思い出したのです。
どんな事業もメリットだけを与えてくれるわけではありませんし、完全に安全な事業などあるはずがありません。
であればこそ、事業を担う人たちの考え方は重要です。
今回の司法判断と行政判断のいずれが妥当なのかは私にはわかりませんが、その違いの基本にあるのはたぶん生命観と価値観です。
「多発性骨髄腫は症例が少なく、被ばくとの間に一定の傾向を読み取れない」と指摘し、因果関係も否定した司法判断には違和感があります。
人の身体は労働力を提供するだけの画一的な機械ではなく、表情を持った生命なのです。
そして、「読み取れない」から因果関係を否定するのか、「読み取れない」から因果関係を否定できないのか、どちらから考えるかは、その人の立脚点によって決まってきます。
「疑わしき」を罰するかどうか。
「疑わしき」を救うかどうか。
すべては、判断する人の立脚点に拠っています。
私には「疑わしき」を罰したり、否定したりすることはできません。
そう思うと、この判決の後ろにたくさんの事件と意図が見えてきます。
この判決が含意していることは、とても大きな気がします。
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