■死刑について1「一人で撃て。一人で撃たれよ。」
今日はちょっと重い話です。
いつか書きたいと思っていましたが、死刑制度の話です。
今日、辺見庸さんの「記憶と沈黙」を読み出しました。
冒頭は「垂線」というエッセイですが、こういう書き出しです。
だれにでもなく、自身にくりかえしいいきかせなければならない。(中略)みなともっと別れよ。みなからもっと離れよ。人をみなといっしょになって嘲ってはならない。(中略)みなといっしょの認識には、かならずといってよいほど錯視がふくまれているから。そして、自分の未発表の小説を引用しながら、「垂線」が語られます。いっそ一人で撃て。一人で撃たれよ。あの垂線を想いつづけよ。
その小説の書き出しは、こうです。
「昨日、あの男が吊るされた」
私が衝撃を受けたのは、垂線の話ではなく、その前文です。
「みなと別れよ」
辺見さんはこう続けています。
まったくの単独者として、孤絶のなかで、私だけの理由と責任で、自問し、嘲り、叫び、祈り、泣き、狂い、殺意を向けるのでなければならない。あるいは、むしろまったくの単独者として、孤絶のなかで、嘲られ誹られ殺意を向けられるのでなければならない。おそらく、そこからしか血や肉や、まして神性をおびた言葉など立ち上がらない。辺見さんは私より3歳若く、いま63歳です。
驚きます。
この若さはどこからでてくるのでしょうか。
たぶん辺見さんは、たくさんの現場を生きてきたのでしょう。
たくさんの現場を見てしまうと、人は平安には生きられません。
現場で実感したことなど、誰にも伝えられませんし、事態を正すことなどできようはずがないのです。
それを知ってしまうとふつうは生き方が変ります。
私の場合は、誠実に生きていくことが難しくなりました。
上記の小論に続いて、辺見さんは永山則夫と大徳寺政司のことを書いています。
いずれも死刑囚です。
私は学生の頃は死刑制度反対でした。
いまは賛成です。
これに関しては以前書きましたが、最近、自信がなくなってきました。
明らかに私の論理には矛盾があるからです。
現在のようなあり方の国家を批判しながら、その存立の拠り所である死刑制度を受け入れることは全くの論理矛盾です。
その帳尻を合わせられずにいます。
ここまで書いてきて、疲れてしまいました。
何回かに分けて書くことにして、今回はその序にとどめることにします。
やはり私はまだ「死」を語るほどに正常化していないのかもしれません。
昨日、友人がブログを書いたと言ってきたので読みました。
「自死」についての記事でした。
自死と死刑と誠実な生き方。
その三大話に触発されて、書き出しましたが、まだ私自身のエネルギーが不足しているようです。
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