■節子への挽歌264:支えあう関係と縛りあう関係
節子がいなくなって失意の中にあった時に、前からの約束で、あるフォーラムのモデレーターをやったのですが、その時、パネリストの一人から「佐藤さん、解放されたと思えばいいのですよ」といわれました。
まちづくりでは実績のある「生活人」だと思っていた人でしたが、その言葉には唖然としました。
彼は、善意を持って、私を元気づけるために言ってくれたのですが、そうした発想が出てくること自体が私には限りなく哀しかったのです。
もう二度とこの人には会うことはないなと思いました。
そういう風にして、私は節子がいなくなってから、何人かの友人知人と違う世界に住んでいることを思い知らされました。
節子がいなくなってから、別の別れを体験しているのです。
もちろん絶縁したという意味ではありません。
違う世界があることを知ったということです。
その反面で、新しい出会いもたくさんありましたから、結果的には世界は広がりました。
ところで、「解放」といわれたことがずっと気になっています。
人のつながりには2つの関係があります。
「支えあう関係」と「縛りあう関係」です。
「解放」という発想は、後者に立脚しています。
私たちはお互いに決して縛りあわずに、支えあってきました。
いや、そう思っていました。
つい先日、いつものように真夜中に目覚めて考えているうちに、この2つは同じなのだと気づきました。
あまりにも当然のことであり、今ごろ気づくのは遅いのですが、節子がいなくなってから私の独断の暴走を止めてくれる存在がいなくなったために、気づけませんでした。
節子は、私の思いを映し、正す、意思を持った鏡でした。
「支えあう」と「縛りあう」は同義語です。
私が取り組んでいる「コムケア活動」は、「重荷を背負いあおう」という精神を大事にしています。
私の生き方の根底には、少なくとも意識の世界では、いつもその考えを大事にしてきました。
にもかかわらず、愛する節子に関しては、そういう発想が完全に出てこなかったのです。
なぜでしょうか。
朝まで考えましたが、わかりませんでした。
「解放」
それはどういう意味をもっているのでしょうか。
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