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2008/05/06

■節子への挽歌247:グリーフケア・ソング「また会えるから」

CWSコモンズのブックのコーナーによく登場する佐久間庸和(一条真也)さんが、「また会えるから」というグリーフケア・ソングを作詞し、DVDにしました。
作曲は北九州市を代表するハートフル・ポップ・デュオのココペリです。
歌っているのもココペリです。
佐久間さんが経営している会社での葬儀で実際に上映して、好評を博しており、その商品化の要望も届いているそうです。
佐久間さんは、グリーフ・カルチャーの思想が広がってほしいと考えています。

佐久間さんには「愛する人を亡くした人へ」という著書もあります。
私のデスクの上にいつも乗っているのですが、まだどうしても読めずにいます。
このDVDも、なかなか観られずにいました。
佐久間さんは、手紙で、 

「節子への挽歌」はずっと拝読しています。
気が向いたら一回観てみてください。
と書いてきてくれました。
それでついつい「この連休中にDVDは観て、本も読み出します」とメールしてしまったのです。
その連休も、今日が最後。
約束は守らなければいけません。

まずDVDを観ました。
感想は佐久間さんにメールさせてもらいましたが、こういうDVDが流れたら、葬儀の雰囲気は違ったものになるでしょう。
ただ喪主の経験、それも妻を送ったものとしては、迷うところです。
やはりどこかに違和感があります。

だから反対ということでは全くありません。
暗くなりがちな葬儀の雰囲気は変えたほうがいいと私は思っています。
喪主としても、参列者に感じてもらいたいことは、決して哀しさや寂しさだけではないのです。
葬儀に参加して気が疲れると思いますが、葬儀では家族は悲しい反面、同時に参列者には明るく振舞いたいのです。それは決して矛盾しません。
喪主自身の気持ちと参列者に感じてもらいたいと思う気持ちとは、実は全く違います。
論理的には極めて説明しにくいのですが、葬儀の場では「ハレ」と「ケ」が同席しているのです。
奈落の底に落とされたような絶望感がある一方で、愛する妻との最後の共演の場のようなハレの感覚がどこかにあるのです。

そのことは、実は葬儀の場だけではなく、その後も続いています。
その違いは、しかし、なかなか理解してはもらえません。
以前、私が元気そうに見えたり哀しそうに見えたりするのは、私の実体ではなく、観る人の心象ではないかと書いたことがありますが、おそらくそのいずれでもあるのでしょう。
これに関しては、また改めて書かせてもらおうと思いますが(これまでも断片的には書いてきたつもりですが)、今日はグリーフケアの話です。

グリーフケア。あるいはグリーフ・カルチャー。
いずれも、私には初めての言葉です。
グリーフとは、突然やってきた深い悲しみというような意味でしょうが、その打撃に耐えられずに崩れていく人は決して少なくないように思います。
私は幸いに娘たちや友人知人に支えられましたが、思ってもいない辛さや気持ちに見舞われたのも事実です。
悲しみの中で、人の真実も見えてくるような錯覚にも陥りがちですが、それは必ずしも真実ではなく、それこそ自らの心象風景でしかないのですが、その風景に振り回されることもあります。
グリーフに翻弄されてしまうわけですが、その際のケアはこれまた難しそうです。
私の体験から言えば、中途半端なケアは逆効果です。
心が入っていないケアはすぐにわかりますが、心を込めたケアでも素直に受け入れられないのが、グリーフ状況の特質かもしれません。
われながら自分勝手だなと思うほどに、感受性は微妙に意地悪くなるのです。
だからこそ、たぶん論理ではない、表情を持った個人ではないものが効果的なのかもしれません。

長くなってきました。
グリーフケアに関しては、佐久間さんの本を読んでから、また少し書いてみたいと思います。

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