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2008/05/21

■経済の交換行為と生活の交換行為

昨日、金融権力に関して書きましたが、そこに、
「カネがカネを生むシステム」がはびこる世界には生きたくない
と書きました。
ではどんな世界に住みたいか、です。

私が住みたいのは、お金を経由しない「物々交換」や「事々交換」の世界です。
それに関しては、その前日に、挽歌編のほうに書いていたのを思い出しました。
そこで書いたように、
お金を使った交換はそこで終わりますが、お金を使わない交換はそこから始まります。
経済の交換行為と生活の交換行為とは全く違うのです。

「交換」は実に面白い行為ですが、私には手におえないほど、深い世界です。
金銭を媒介にした交換は、基本的には「等価交換」であり、そこで完結してしまいます。
本来、「生きる」とは外部との交換行為のことですが、そこでの「交換」は決して完結することはありません。
つまり、生活における交換行為は継続的な行為なのです。
そこでは「交換」は意図されていないとしても、結果的には交換的な展開につながっているのです。
時にその交換が現世を超える場合もあるでしょうが、生命的な次元で考えれば必ずつながっています。
その「交換」は、始まりも終わりも明確ではなく、際限もありませんから、損得という概念から自由です。
いうまでもなく「等価交換」ではありません。
さらにいえば、「交換」は手段的行為ではなく、目的的な行為なのです。
金銭的交換の世界にはgive and take という言葉がありますが、そもそもgive and take という発想すらないように思います。giveという発想がないからです。

生命的な交換に立脚した「経世済民」の経済システムの精神は、まだきっと日本にも残っています。
それを大切にしていきたいと思っています。

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